〈地域を歩く〉
2023年5月27日
盛岡市の町並み。
白雪を冠した岩手山が見守る
それぞれの地域には、その地にしかない歴史があり、魅力が
あり、誇りがあります。日本の各地を訪ね、その地で生き抜く
学会員を追う連載「地域を歩く」。今回は、岩手県盛岡市が舞
台です。
「2023年に行くべき52カ所」
本年1月、米ニューヨーク・タイムズ紙が「2023年に行くべき52カ所」を発表した。世界の名だたる都市が並ぶ中、ロンドン
に続き、2番目に紹介されたのは、岩手県盛岡市だった。
東京や大阪といった大都市でもなければ、人口規模も東北で5番目と決して大きな都市でもない。
なぜ、この地が世界から注目されるのか――。その答えを探るべく、盛岡を訪ねた。
清流が潤す大地で生きる
JR盛岡駅を出て取材先へ急ぐ道中、目を奪われる光景があった。色彩豊かな花々が咲く河川敷の背後にそびえる秀峰・岩手山
だ。歩けば汗ばむ5月にあっても、頂には雪が残り、涼しげな雰囲気を醸し出していた。
「絶景でしょう」と迎えてくれたのは千葉康則さん(本部長)。聞けば、岩手山は“南部片富士”の異名を持ち、この地のシンボル
だという。
盛岡の自然の魅力は、それだけではない。“杜と水の都”と称され、一級河川の北上川のほか、雫石川、中津川、簗川という四つの
清流が市内に流れ込み、大地を潤す。市役所のそばを流れる中津川では、アユやヤマメが捕れるほか、秋になるとシャケが遡上す
ることでも知られる。
「県庁所在地で、こんなに川がきれいな場所は、そうはありません」
千葉さんは、県内の釣り人のマナー向上を図る岩手県釣りインストラクター連絡機構の代表。河川の清掃活動も実施し、今月15
日には中津川でアユの放流も行ったという。
「この大好きな郷土の自然を、子どもたちの世代に残したい。それが私の夢です」と千葉さん。その瞳は、少年のように輝いてい
た。
文化の薫り漂う街で
「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだのは、この地に生まれた詩人・石川啄木であ
る。
盛岡は、教育者・新渡戸稲造や国語学者・金田一京助らも輩出してきた「文化の街」として知られる。
また、江戸時代から栄えた城下町。当時から続くという雑貨商をはじめ、染物店や古民家を改修した個性豊かな店が軒を連ねる。
街を歩けば、コーヒーの香りが漂い、ジャズの音色が聞こえてくる。
「雄大な自然にも囲まれ、詩でも詠みたくなりませんか」と語りかけてきたのは、中村雄幸さん(副本部長)。イラストレーター
として、大手出版社の書籍の表紙画・挿画、演劇の舞台美術などを手がける。
盛岡市で愛唱歌が公募された40年ほど前には「啄木の青春の街 盛岡に」という楽曲を作詞・作曲し、最優秀賞に。現在は動画
投稿サイトで、地域の魅力を伝える自作の歌なども発信する。
「ここの空気に触れていると、創作意欲が湧いてくるんです。自分を表現できる場にあふれているのが、盛岡の魅力です」と中村
さん。芸術の力で地域に活力を送る。
「感謝と真心」のモットーに託した思い
「水も空気もきれいな盛岡は、食べ物もおいしい!」
そう語るのは、開業42年の「中華料理 正華」の創業者・松原健一さん(副本部長)。代表を譲った娘婿の星川一馬さん(壮年
部員)と地産地消を掲げ、市内3店舗で新鮮な食材を使った料理を提供する。
盛岡の食といえば、わんこそば、盛岡冷麺、盛岡じゃじゃ麺の“三大麺”が有名だが、「もともと冷麺は韓国、じゃじゃ麺は中国が
発祥。盛岡にはアレンジを加え、異文化を取り入れる懐の深さがある」と松原さん。店の人気メニューである「カラシ味噌ラーメ
ン」も、寒い地域だからこそ、体が温まるものを提供したいとアレンジしたものだという。
店のモットーは「感謝と真心」。そこに託した思いを松原さんに聞くと、ある客との思い出を教えてくれた。
――ある日、しばらく来ないと思っていた常連の女性の家族が、女性抜きで来店した。家族に声をかけると、その女性は闘病の末
に亡くなり、彼女の好きだった料理を家族で食べようと来店したことが分かった、と。
「こういうお客さんを、いつまでも大事にしていかないといけないと思いました」
以来、来店する客の背景にまで思いを巡らせ、真心を込めた料理を提供するために中華鍋を振り続ける。
互いに思い合う人々の温かさ
「盛岡の一番の魅力は、人の温かさです」と言うのは、中学校教師だった藤原哲子さん(県女性部主事)。御年90。35年前に
現役を引退したが、今なお100人は優に超える教え子たちとつながる。
「一緒に過ごしたのは3年間でも、思い出はいつまでも宝物」と藤原さん。その一端を話してくれた。
昼休みに共に弁当を食べた話。当時、流行していた“スケバン”姿の生徒の進路が決まるまで県内中の高校を回った話。卒業時に皆
で涙を流して別れを惜しんだ話……。
時は過ぎても「あの子は元気かしら」と思いを馳せる。昨年は還暦を超えた教え子が「哲子先生、元気?」と、家に咲いたダリア
の花を持ってきてくれたという。
「こうして互いに思い合える。それが、盛岡の良さなんです」
南部鉄器を手がけて25年
「ここに住む人たちとの交流が、私の創作の力」と教えてくれたのは、大村敏宏さん(地区幹事)。盛岡の工芸品・南部鉄器を
手がけて25年。「南部鉄器新作展」で最優秀賞に幾度も輝き、数々のコンテストでも入賞した腕の立つ職人だ。
盛岡の南部鉄器は17世紀初め、南部藩主が京都から釜師を招いて茶の湯釜を作らせたことが始まりとされる。工程は木型作りか
ら鋳型作り、模様押しなど多岐にわたり、どれほど手をかけたかで品質の良しあしは一目瞭然という。
伝統を守る。大村さんは担い手としてその責任を実感する一方、“こうあらねばならない”とのしがらみから抜け出す挑戦を続けて
きた。現在は地元の動物園とタイアップし、南部鉄器の動物の置物を制作中。この取り組みは、地元で大きな話題を呼ぶ。
「古くから伝わることを続けるだけでなく、過去を超えようとする挑戦の中で、伝統の価値も皆さんに分かってもらえるのだと思
います」
古き良き伝統を残しつつ、常に新しい魅力を発信しようとする。大村さんの言葉の中に“なぜ、盛岡が世界から注目されているの
か”の答えがある気がした。
原点となった池田先生との出会い
挑戦の息吹は、盛岡の同志にも脈打つ。
その魂が刻まれたのは、1972年(昭和47年)7月14日。「岩手の日」の淵源となった、盛岡市の岩手県営体育館での記念撮影で
ある。
出席した池田先生は、岩手の友に「希望と開拓」との指針を贈り、こう語った。
「常に10年、20年先への希望と夢を保ちつつ、自己の運命、そして地域を力強く開拓しゆく人生であり、岩手であってほしい」
この時、古舘美知子さん(総県副女性部長)は、岩手女子哲学研究会の一員として参加した。当時、父親が営む建具店が倒産し、
アルコールに依存するように。古舘さんは家計を支えるために大学進学を諦め、地元の銀行で働きながら弟の学費も捻出した。
夢も希望も捨てた時だった。
そんな中での師の励まし。込み上げる涙の中で誓った。
“この信心で自分の未来を開拓しよう”と。
以来、学会活動に食らいついた。時には境遇に負けそうになることもあったが、その都度、先輩が親身に話を聞いてくれた。涙な
がらに「一緒に福運をつけよう」と寄り添い続けてくれた。
その中で、状況は次第に好転。女子部(当時)のリーダーとして各地を走る中、「いつしか自分のことだけでなく、人の幸せも祈
れるようになっていました」と振り返る。
古舘さんは、原点となった日から7年後の79年(同54年)1月、岩手県を訪れた先生と出会いを果たす。
激闘に次ぐ激闘の中にあっても、古舘さんの声に耳を傾け、岩手女子部への期待を寄せてくれた先生の振る舞いを忘れない。
「あの時、先生から『拡大だよ』との激励をいただきました」
その後、皆で折伏に挑み、当時約900人だった岩手女子部の陣列は3年で1500人まで拡大した。
古舘さんは述懐する。
「先生との出会いで、私の人生は変わりました。自分の未来を憂えていましたが、広宣流布という『希望』と、弘教拡大という
『開拓』の中に本当の喜びがあることを教えていただいたのです」
孫たちにも受け継がれる信心
「希望と開拓」――この言葉を胸に、多くの同志が人生勝利のドラマをつづってきた。
県営体育館の近くに住んでいた伊藤奈美子さん(地区副女性部長)も、その一人だ。
母親の折伏で入会した伊藤さんは当時、結婚間もない頃。悩みは、未入会だった夫・裕一さん(地区幹事)から学会理解を得られ
ないことだった。「その時、私の『希望と開拓』は一家和楽だと決めました」
家族の幸せを祈り続ける中、次女の「川崎病」をきっかけに、裕一さんも唱題するように。次女は病を乗り越え、信仰の確信をつ
かんだ裕一さんも入会した。今では4人の娘や孫たちにも信心が受け継がれている。
自らが「希望」の存在に
公営団地に住む原優子さん(圏女性部主事)は「『希望と開拓』の大切さを感じたのは、2011年に起きた東日本大震災の時で
した」と。
当時、民生委員だった原さんは、団地で暮らす高齢者の対応に当たった。
「皆さん、不安でいっぱいの中、私が希望とならなければと感じました」
そして、集会所への避難を呼びかけ、皆で持ち寄った小麦粉で、すいとんを作ったという。以来、町内会活動にも積極的に関わ
り、一人一人に真心で寄り添い続けてきた。町内会副会長を務めた男性は、原さんの姿に感動し、本年3月に進んで学会に入会し
た。
盛り上がり、栄える岡
一説では、盛岡はかつて、“誰も来ない僻地”との意味で「不来方」と呼ばれた。地名が変わったのは江戸時代。南部藩主が“盛
り上がり、栄える岡”との願いを込めて「盛岡」と名付けた。
以来、政治・経済の要衝として開拓が進められてきた。
この地の魅力を示すエピソードが、街の中心地に架かる「開運橋」にある。
橋は別名“二度泣き橋”。都会から盛岡へ転勤してきた人が、この橋を渡りながら、“遠く離れた所に来てしまった”と、寂しさのあ
まり涙を流した。しかし、再び命を受けて盛岡を離れる際には、今度は去りがたくて、この橋で再び涙を流したという。
今でこそ、東京から新幹線でわずか2時間。盛岡に行く大変さは感じられないが、この地の自然や人々の温かさに触れ、その魅力
を知るほど、去りがたい気持ちが分かるような気がした。
この“栄えの都”にあって、「希望と開拓」の使命に燃える同志たちは輝いて見えた。