【世界広布の源流 青年に語る創価の魂】第19回
2023年4月14日
出席者 長谷川理事長、梁島男子部長、林池田華陽会委員長、田島学生部長、先崎女子学生部長
「創価学会 世界聖教会館」
(池田先生撮影。2019年9月、東京・信濃町)。
師は呼びかける――「わが聖教よ! 常に新しく!
常に挑戦の心で! 常に勇気凜々と!
広宣流布の大舞台で新風を巻き起こせ!」
「聖教と共に、我らは今日も、
この『人間革命』の対話の正道を、
そして『立正安国』の言論の大道を爽快に切り開いていこうではないか!」
◆林 聖教新聞は、創刊から10年を刻む1961年(昭和36年)、100万部を突破し、翌62年(同37年)から、週3回刊となり
ます。
◇長谷川 63年(同38年)、私は本部職員として、聖教新聞社の編集に配属となりました。週3回刊だった当時のことをよく
覚えています。
64年(同39年)、聖教は200万部を突破し、9月12日付で創刊1千号を迎えます。そして、65年(同40年)7月15日、同志の念
願だった日刊化が実現するのです。
この年の元日から、池田先生は小説『人間革命』の連載をスタートします。日刊化に伴い、連載の回数は、週3回から7回に増え
ました。
世界への平和旅や会員の激励など、多忙の合間を縫って、先生は執筆を続けられました。小説『新・人間革命』第10巻「言論
城」の章には、当時の真情がつづられています。
「自身への過酷な挑戦であったが、師の戸田城聖と心で対話しながら、会員への励ましの手紙をしたためる思いで、ペンを執り
続けていった」
業務に当たる聖教の編集部員にも、温かく激励されました。当時は活字を組んで刷る活版印刷の時代です。先生は、何度も印刷
工場にまで足を運ばれ、インクで真っ黒になったスタッフを励ましてくださいました。
私は編集に配属された当初、記事を上手に書くことができませんでした。学会活動を終えると、そのまま職場に戻り、深夜まで
机に向かう日々でした。
それでも、原稿は“ボツ”の連続です。行き詰まりを感じていた時、先生が「元気か! 頑張れ!」と声をかけてくださり、その
上さらに、戸田先生の和歌を色紙にしたため、贈ってくださったのです。
「辛くとも 嘆くな友よ 明日の日に 広宣流布の 楽土をぞ見ん」
和歌を見つめながら、“そうだ。今の苦労は必ず未来の財産になる。決して自分の弱い心に負けまい”と奮い立ちました。
この時、先生が手塩にかけて育成してくださった職員は、広布のリーダーとして活躍しています。
創刊以来、聖教の全てが池田先生の手づくりでした。師と共に、聖教の黄金の歴史は刻まれていったのです。
広告を通して師の心伝える
◆田島 70年(同45年)、聖教の発行部数は400万部を超えます。一方、この年、「言論問題」の嵐が吹き荒れ、学会への中
傷が繰り返されます。
◇長谷川 「言論問題」の背景には、学会という一大民衆勢力の伸展を阻もうとする政治的な狙いがありました。
翌71年(同46年)1月4日、聖教新聞は日刊12ページ建ての現在の形となります。「言論問題」の嵐を乗り越え、さらに飛躍で
きるか、重要な時でした。
先生は、この頃から足繁く聖教新聞社を訪れ、記者をはじめ職員と懇談を重ねられました。
私も聖教の職員として、渾身の励ましを目の当たりにしました。先生は、記事の書き方から生活態度に至るまで、職員にアドバ
イスを送りながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、聖教の魂をとどめてくださいました。
大変な時でしたが、この時の試練が跳躍台となって、聖教も、学会も、大きく飛躍することができました。
小説『新・人間革命』第18巻「師子吼」の章に、当時の山本伸一の戦いについて、こう記されています。
「生命を削るかのような、この聖教新聞への指導によって、聖教に永遠不滅の精神の柱が打ち立てられたのである。
そして、この時、言論城に、赫々たる師弟の太陽が燦然と昇ったのだ」
先生は、批判の矢面に立って、聖教を守り、さらには学会を、同志を守りに守ってくださいました。私たちは、師匠の闘争を心
に刻み、師恩に報いる戦いを深く決意したのです。
◆梁島 「言論問題」以後も、障魔の嵐が学会に襲いかかります。77年(同52年)ごろからは、宗門僧による学会への誹謗
が激しさを増します。
◇長谷川 79年(同54年)4月24日、池田先生は第3代会長を辞任します。
宗門側は、反逆・退転者と結託し、先生が“会合で指導してはいけない”“聖教新聞等でも指導を報道してはいけない”など、理不
尽な要求をしてきました。先生と学会員との“師弟の絆”の分断をもくろんだのです。
こうした状況の中でも、先生と海外の要人との会見が聖教新聞で報道されます。宗門側も、海外の要人との会見報道まで禁じる
ことはできませんでした。
紙面を通して伝えられる先生の会見は、全同志に勇気と希望を送っていきます。
さらに、“先生に紙面に登場してもらいたい”という、聖教の職員たちの強い思いが形になったのが、新聞広告です。
79年5月8日、本紙2面に、池田先生が執筆した書籍の広告が掲載されました。先生の顔写真も一緒でした。
その後も、折あるごとに、先生の写真と共に書籍の広告が載ります。学会創立記念日を迎えた79年11月18日、先生の歌集『勇
舞』が広告で紹介されます。
そこには、歌集に収められた和歌も掲載されました。
「共どもに ひとたび決めた 道なれば 初心忘れじ 君も私も」
80年(同55年)5月3日には、句集『広布の友へ』の広告に、「いざや抜け 慈悲の剣あり 祈りあれ」等の句が掲載されまし
た。同志の喜びは、いかばかりだったでしょう。
吹雪に胸張り敢然と進む
◆先崎 80年4月29日、先生は、5度目の中国訪問の帰途、長崎空港に降り立ちます。
◇長谷川 長崎での激励行を報道したいと請う聖教の記者に対し、先生は語ります。
「事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に
戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」(『新・人間革命』第30巻〈上〉
「雄飛」の章)
翌30日付の本紙1面には、訪中後の記者会見、長崎での記念幹部会の報道と共に、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部
の会員の激励・指導に当たる予定になっている」との記事が掲載されます。反転攻勢の助走が開始されたのです。
同年7月には、聖教の編集担当者らに、小説『人間革命』の連載再開を告げます。8月10日から、第11巻「転機」の章がスター
トします。体調が優れず、発熱する時もある中、先生は、まさに命を削って正義の言論戦を続けられるのです。
小説『人間革命』第11巻「転機」の章の冒頭は、次の一節で始まります。
「妙法という法則は、永遠であり、不滅である。その法を信受し、流布する創価学会もまた、永遠であり、不滅である。烈風を
も恐れず、豪雨にもたじろがず、吹雪に胸張り、われらは敢然と進む。尊き仏子の使命を果たしゆくために、民衆の凱歌のため
に──」
聖教は、民衆の凱歌を轟かせるための原動力となってきました。言論の力を確信し、声を惜しまず、正義を叫ぶ──これが、戸
田先生が身をもって教えてくださった「聖教魂」であると、池田先生は随筆につづられています。この闘争心こそ、青年の
「魂」です。
今、SNSなどの通信技術の発達により、コミュニケーションのあり方は多様化しています。しかし、どれだけ社会が変化しよう
とも、青年が、励ましの声、正義の声を惜しまず響かせていく──そこから、広宣流布の広がりが生まれることは、変わりませ
ん。
「聖教の正義の言論」と「青年の師子吼」。この両輪があってこそ、広布は加速度を増して伸展していくのです。
参照
◆小説『人間革命』=第11巻「転機」
◆小説『新・人間革命』=第10巻「言論城」、第18巻「師子吼」、第30巻〈上〉「雄飛」