2023年3月17日
京都のランドマークの一つ、
下京区にそびえる京都タワーを
池田先生がカメラに収めた
(1989年1月)
それぞれの地域に刻まれる師弟の足跡。連載「わが天地の誉
れ」では、各地でつづられてきた広布史を紹介します。
池田先生が何度も降り立った京都駅がある京都市下京区。同駅の北側一帯に位置する。世界的な観光地としてにぎわうこの地域
で、下京創価区の友が、和楽の人材城の構築に奔走している。
区の日は「4・13」。1982年(昭和57年)の同日、京都滞在中の先生から、「福運の人たれ そのために 信行の人たれ」との
言葉が贈られたことが淵源だ。この指針を師への誓願とし、下京の同志は、広布拡大の歴史を刻んできた。今、新時代の勝利を開
く“信行の実践”にまい進している。
下京の原点は、63年(同38年)2月20日、先生を迎えて行われた、草創の「京都本部」の落成式だ。前年、学会は300万世帯を
達成。拡大の上げ潮の中で、京都の宝城が完成した。
落成式当日、先生は建物の少し手前で車を降り、待っていた同志を激励。老婦人に「寒かったでしょう」と声をかけ、手を取りな
がら、入館した。
席上、「第一にも、第二にも、第三にも、仲良く団結して」と呼びかけ、“この会館から、何百万人もの幸せな人々をつくってい
ってほしい”と念願した。そして、京都の地に立派な会館ができたことは、学会が世界宗教として大発展していく“くさび”が打た
れたということであると、力強く訴えた。
その後も、先生は、折に触れてこの宝城に足を運び、京都の同志との絆を結んだ。
69年(同44年)5月7日の訪問の際には、短時間の滞在の中で、同志と一緒に勤行。「祈り切って願いのかなわぬはずはない。
このことを確信して、明るく楽しく、伸び伸びと前進していただきたい」と指導した。
76年(同51年)、現在の京都記念会館に改装された直後も、先生が訪れ、友を励ました。
同会館には今、京都で誕生した「威風堂々の歌」の歌碑がある。威風も堂々たる下京の前進は、関西、全国を牽引する。
京都市山科区は、滋賀県大津市とも接する、“京の東の玄関口”だ。山科総区の友が広布に駆ける天地である。
清水焼など、伝統産業の生産者が多く住む。山科総区の有志もこれまで、手作りの?風などを作成。会館に展示され、多くの友が
鑑賞し、池田先生もその真心を心からたたえた。
伝統が根付く地域で、山科の同志は草創から、誠実に創価の哲学を語り広げ、京都広布の先駆の使命を果たしてきた。
その山科の地に、広布の宝城・山科文化会館が誕生したのは1987年(昭和62年)4月。同志の喜びは爆発し、さらなる拡大の大
波を起こしていった。
5年後の92年(平成4年)10月、240回目となる関西指導の折、25日に、先生の山科文化会館への初訪問が実現した。
先生は、午後3時半前に到着。すぐに、集まっていた多くの同志のもとへ。一人一人に励ましを送る師の姿は、今も皆の目に焼き
付いている。
記念植樹を行った後、一緒に勤行を。山科支部結成27周年の集いが始まった。
「懸命に頑張っている。立派なところだ。私は知っているよ」──先生は山科の友の奮闘に、称賛を惜しまなかった。
席上、“御本尊の偉大な力を引き出すのは、強盛な信心である”ことを強調。御本尊は、どこまでも「人間の幸福」「民衆の幸福」
のために御図顕されたことを確認した。
「偉大なる/歴史をつつみし/山科の/長者と王者の/和楽 楽しや」など、5首の和歌も詠み贈った。師への誓いを固め合う一日と
なった。
以来、山科広布の前進は加速し、99年(同11年)には、2分区体制となり、「山科王者区」「山科長者区」が誕生した。
昨年、初訪問から30周年の佳節を迎え、山科の友は、対話拡大に、人材育成にさらなる飛躍を遂げた。今、新たな金字塔をとの
決意がみなぎっている。
世界遺産の二条城や、“京の台所”と称される錦市場など、古都の魅力にあふれる京都市中京区。広布の舞台においても、草創期
には京都支部の事務所が置かれ、現在の京都の中心会館である、京都国際文化会館がそびえる。池田先生が何度も足を運んだ有縁
の地だ。
この地で、威風堂々と広布拡大に励むのが中京王城区の友。今、区の日である「4・14」を大勝利の姿で迎えようと、皆が壁を破
る拡大に挑んでいる。
「区の日」の淵源は、1982年(昭和57年)4月のこと。反転攻勢の激励行を続ける先生は、その年2度目の関西指導へ。京都で、
ルネ・ユイグ氏ら世界の識者との対談を重ねる中で、14日、中京の友へ「感謝ある人は 常に幸なり」との言葉を贈った。この
指針は、同区の師弟の原点となった。
98年(平成10年)9月、待望の京都国際文化会館が誕生し、2カ月後の11月15日、先生は初の足跡をしるした。18日の「学会創
立記念日」には、同会館で関西総会・京都総会が行われ、先生は語った。
「関西創価学会が世界に光を放っているのは、皆さまと私が、来る日も来る日も、ただひたすらに、広宣流布へ、わが生命を燃焼
させてきたからである」
翌19日の「関西勝利協議会」では、京都の同志をねぎらった。
「『一番、大変な国土』にあって、京都の皆さま方は、雨の日も風の日も、まさに岩盤に爪を立てるがごとく、忍耐強く、戦い抜
いてこられた。地域に、社会に、辛抱強く、根を張ってこられた」
先生は、京都の友の苦闘を誰よりも知る。その「勝利の象徴」が、京都国際文化会館であると宣言し、呼びかけた。
「関西、頑張れ! 京都、頑張れ!」
本年は、同会館の開館から25周年の佳節を迎える。京都そして関西は、常勝の魂を燃えたぎらせ、“師弟一体”で勝つ!
京都駅の南西に広がる京都市南区。京野菜の九条ネギの産地として知られる。大企業の本社も多く、多彩なものづくりが光る地
域だ。南栄光区の友が、地道な対話運動に励み、笑顔のスクラムを広げている。
1989年(平成元年)9月、待望の京都南文化会館が区内に開館し、広布の勢いが加速していった。
93年(同5年)11月、「学会創立記念日」を祝賀しようと、南区の有志が大凧を作成した。向かい風を味方に変え、大空高く飛
翔する凧に、皆の決意を込め、裏側には同区の友・5千人の署名がしたためられた。高さ4・5メートルの凧には、大きく「王者」
と記した。
同月、池田先生が関西を訪問した。先生を乗せた車が、区内の高速道路を通るかもしれない──南区の同志は、師匠に届けと、付
近のグラウンドで“王者凧”を揚げることに。
しかし、あいにく風がなく、簡単には上がらない。“風がなければ、自分たちで起こすんだ”と、皆で猛然と走った。そして、2度
目の挑戦で、凧は大空へと舞い上がった。集った同志から大歓声が湧いた。先生からは、「うれしい限りです」との伝言が届い
た。
2年後の95年(同7年)5月22日午後1時半ごろ、京都を訪れていた先生は大阪に向かう途中、京都南文化会館を車で視察。同志が
夢見た、同会館初訪問の足跡が刻まれたのである。
この時、南区の友は、先生の関西指導を圧倒的な拡大で迎えようと、関西をリードする弘教と、聖教新聞の購読推進を達成してい
た。
会館に居合わせた同志は、2階の窓から、力の限り手を振った──“先生、ありがとうございます!”。師も、三色旗を振って応え
た。この日が「区の日」となった。
拡大の実証を示し、「区の日」を荘厳する──南区の友に受け継がれる共戦の魂である。