〈神奈川広布史 特別企画〉
2023年3月9日
「私は、神奈川の天地が大好きです。神奈川の友が大好きです」──池田先生が愛してやまない神奈川。「共戦」と「正義」の
旗が翻る天地には、師弟の黄金譜が幾つも刻まれている。
横浜・鶴見区
学会が「立正安国」の旗を掲げ、初めて支援活動に臨んだのは、1955年(昭和30年)の統一地方選挙である。
この地方選で、池田先生は東京都議選(大田区)とともに、横浜市議選(鶴見区)の最高責任者を務めた。
地元紙に選挙前の情勢報道が掲載された。学会が支援する候補者は、「最後の追いこみにいま一歩の努力が必要」と。“圏外”の扱
いだった。
だが、その予想を覆し、トップ当選を果たす。地元紙は「もっとも番狂わせのはげしかった地区」と報じた。
56年(同31年)の「大阪の戦い」の勝利は、世間をあっと驚かせた。その前年、池田先生はすでに、横浜・鶴見で「もっとも番狂
わせ」の逆転劇を起こしていた。
◆◇◆
若き日、池田先生は鶴見に何度も足跡をしるしている。49年(同24年)、21歳の秋には座談会に出席。恩師・戸田先生の偉大
さを確信込めて語り、5人が入会を決意した。
51年(同26年)4月20日、聖教新聞が創刊された。「聖火鶴見に炎上」との見出しが2面を飾った。戸田先生の第2代会長の就任
を、鶴見支部の友は弘教拡大で荘厳した。
当時、池田先生は鶴見方面でも対話に駆けた。同支部の活躍の陰には、“広布勝利の証しで、戸田先生の会長就任を祝福しよう”と
の池田先生の激闘があった。
85年(同60年)1月16日、先生は鶴見文化会館を訪問。代表の友との懇談で語った。
「覚悟を決めた人は強い。私は19歳で、絶対に戸田先生を守ると覚悟を決めた。だから悪口を言われようと、迫害を受けようと何
ともない。これが創価学会の真髄です」
この地から今再び、広布の聖火を!──いかなる逆境にも一歩も引かない「覚悟」で、鶴見の友は“凱歌の春”を呼ぶ戦いにまい進
している。
共戦の友よ、正義を叫べ!
相模原市
1953年(昭和28年)6月14日、池田先生は日記に記した。
「橋本地区総会に出席。盛大であった。十時九分発にて帰る。疲れる。本年最大の疲れなり」
同年4月20日、先生は文京支部長代理に就任。橋本地区は文京支部に所属しており、相模原方面には、多くのメンバーがいた。
地区総会の新来者に、ある新興宗教のリーダーがいた。目的は「法論」だった。先生は鋭く切り出した。
「仏法は勝負です。私の三つの質問に答えてください。一点、宗教とは何か。二点、生命とは何か。三点、幸福とは何か!」
25歳の青年の気迫は、相手を圧倒した。先生の言葉に力がこもった。「人の不幸を取り除き、幸福にできない宗教は最低です」
結局、その人物は一言も発することができないまま、会場を去って行った。このやりとりを通して、総会の参加者は、“この信心は
すごい”と心から実感した。
総会以降、橋本地区では次々と弘教が実った。低迷していた文京支部は、やがて日本一の拡大を成し遂げるまでになる。
55年(同30年)4月27日、相模原方面で対話に駆けた先生は、日記につづった。
「五時より、神奈川の橋本へ行く」「皆、勝たしたい」「負ける戦は、させてはならぬ」
この月の統一地方選挙で、横浜市議選(鶴見区)に続いて、相模原市議選でも、学会が支援する候補者が当選。相模原の市制施行
後で初となる女性議員の誕生ともなった。
◆◇◆
78年(同53年)10月8日、相模原文化会館の開館記念勤行会が行われた。勤行会は計5回開かれ、池田先生は全てに出席した。
席上、先生は強調した。
「信心は確信である。真実の幸福を築くためには勇気が必要である」
「大事な時に退いたり、ひるんではならない。忍耐強く、10年、20年、30年の信心の坂を上っていくならば、想像もつかない福
運の境涯に入っていく」
そして、相模原の同志への万感の思いを語った。
「広布のため、人々のために、日夜、骨身を惜しまず、無償の実践を展開する皆さん方が大好きでならない」
今年は、橋本地区の総会から70周年、師の相模原文化会館訪問から45周年。
相模中央総区、相模緑総区、相模南総区の鉄壁の団結で、新たな歴史を開く時が来た。
横浜・中区
南横浜総県・中区の「区の日」は4月13日。1979年(昭和54年)のその日、池田先生が神奈川文化会館を初めて訪問したことが
淵源だ。
翌14日、開館記念勤行会に出席した先生は、神奈川での若き日の活動の思い出を述懐。「七つの鐘」の意義を確認し、「一人立つ
精神」を胸に、強盛な信心を貫くことを強調した。
この10日後の24日、先生は第3代会長を辞任する。勤行会で語った「一人立つ精神」は、“神奈川は何があっても立ち上がれ”と
の、師の呼びかけだったのだ。
神奈川文化会館がオープンした79年、先生は同会館に64日間滞在。神奈川で同志を励まし、世界広布の指揮を執った。神奈川か
ら、新たな戦いを起こした。
会館が誕生した後、「地域にしっかりと根を張っていこう」と、近隣の店や中華街にも足を運び、あいさつに回った。自らの姿を
通して、神奈川の友に、友好拡大の模範を示したのである。
同年5月3日、創価大学での本部総会を終えると、先生は神奈川文化会館へ。居合わせた友に、「記念に皆さんに」と「創価学会
会長 池田大作」の名刺を贈った。
その日、先生は2枚の書をしたためた。「共戦」「誓」である。
「共戦」の脇書には、「五十四年 五月三日夜 生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じ
つつ 合掌」と記した。
2日後の5日には、「正義」と筆を走らせ、「われ一人正義の旗持つ也」と脇書に書きとどめた。
会館滞在中、新たな名刺が完成した。「創価学会インターナショナル 会長 池田大作」。会館を出発する6日、見送る友にその名
刺を渡した。世界広布の新たな船出の時は、神奈川文化会館で刻まれた。
79年4月からの1年間で、先生が同会館で記念撮影した人は、1900人に及ぶ。宗門の悪僧らによる謀略の嵐が吹き荒れる中、同会
館は「共戦」「正義」の絆を結ぶ舞台となった。
神奈川文化会館で生まれた数々の師弟のドラマ──。その歴史は学会の宝であり、中区の友の誉れである。
横浜・緑区
1985年(昭和60年)1月27日、池田先生は緑文化会館(現・青葉文化会館)を訪問。そこには緑区の代表と共に、港北区のメン
バーも駆けつけた。
先生は会館に到着すると、“さすが緑区、さわやかな人が多いね”と。記念撮影を終えると、館内へ。ロビーにあった長いすに腰か
け、集った友に、「ここで座談会をしよう」と提案。語らいのひとときが持たれた。
その後、勤行・唱題し、同志の幸福と地域の繁栄を深く祈念。勤行を終えると、「きょうこられなかった方に、くれぐれもよろし
くお伝えください」との言葉を託した。
また、「緑区は戦時中、父の友人のお宅を何度か訪ね、大変にお世話になった。私にとって青春時代の思い出深い地です」と述
懐。
「さわやかな緑に包まれたこの地で、妙法流布と人々の幸せのために活躍する仏子として、誇りも高く前進していただきたい」と
語った。
管理者夫妻には「若い時に苦労は買ってでもしなさい。全て財産になるよ」と、慈愛の励ましを送った。
会館を出発した後、先生は車中で和歌を詠んだ。
「緑とは 平和と安全 健康の 印なるかと 勇み立ちゆけ」
◆◇◆
緑文化会館が落成したのは83年(同58年)12月。それから30年目の2012年(平成24年)4月、新「緑文化会館」がオープンし
た。
先生が“憧れの地”とたたえた緑区をはじめ、都筑区、青葉区などの横浜北部地域は今、ベッドタウンとして大きく発展を遂げてい
る。都筑区には10年(同22年)、青葉区には14年(同26年)に新法城が誕生した。
自他共の幸福と地域社会の繁栄のために──友の誇り高き前進は、きょうも続く。
大和市
1986年(昭和61年)5月13日、池田先生は体調が優れない中、大和文化会館(当時)に足を運んだ。
出迎えた友らと握手を交わすと、その場にいた同志に「学会っ子の多い街だね」と声をかけた。
この「学会っ子」とは、未来部や青年部のメンバーだけを指すのではない。いかなる障魔の嵐が競い起ころうとも、広布と人生の
歩みを貫く弟子のこと──それが、大和の友の確信だ。
会館2階の仏間には、大和をはじめ、海老名、綾瀬、座間の友が集っていた。先生は皆と一緒に勤行し、友の勝利と栄光を祈念し
た。
この年、大和の友は年頭から、対話拡大にまい進。春には、神奈川をリードする弘教を成し遂げた。その勝利の喜びの中で、師の
会館訪問が実現したのである。
会館を出発した後、先生は大和の友に、2首の和歌を詠んだ。
「生きいきと 神奈川広布の 先駆きる 大和の将の 歴史はたしかと」
「学会と 生死をともにと この世をば 女王と舞いゆく 優雅な命は」
宝の原点から10年後の96年(平成8年)5月12日、大和の記念大会が、東京戸田記念講堂で開かれた。先生はこの集いに和歌を贈
った。
「堂々と ついに築けり 大和城 守るも攻めるも 世界一かな」
昨年5月、新「大和文化会館」が完成した。開館1周年を荘厳する立正安国の凱歌へ、大和の友は怒濤の勢いで、勇気と執念の対話
に挑んでいる。
◆◇◆
97年(同9年)9月15日、神奈川文化会館で神奈川・海外代表者協議会が行われた。
席上、先生は神奈川への万感の思いを語った。
「きょう私が申し上げたいことは、ひとつ。それは『神奈川よ、叫べ』『神奈川よ、立ち上がれ』ということに尽きる」
「神奈川は、日蓮大聖人が広宣流布の大闘争をされた天地である。私が会長を勇退した後、その足で、ただちに神奈川を訪れたの
も、その意義を噛みしめたかったのである。その心を知っていただきたい」