〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第29回
2023年2月26日
「教学の年」と掲げられた1977年の1月15日、
池田先生は大阪・豊中市の関西戸田記念講堂で行われた
「教学部大会」で、「仏教史観を語る」と題して講演。
「“宗教のための人間”から“人間のための宗教”への
大転回点が、実に仏教の発祥であります」と明快に語った
共戦の同志の凱歌が会場に轟いた。1962年11月27日、東京体
育館で開催された本部幹部会。席上、戸田城聖先生の遺言である300万世帯を達成したことが報告された。
いよいよ次なる広布の峰へ──その目標の一つとして、翌63年を「教学の年」とし、「教学の充実」に力を注ぐことが発表され、
御書を身読する実践が強調された。
63年を最初に、73年、77年、78年が「教学の年」と定められている。
73年は「広布第2章」の開幕と位置づけられた。この年以降、池田大作先生は『私の釈尊観』などの教学著作を次々と発刊した。
アメリカのハーバード大学でかつて、『私の釈尊観』に関する論文試験が出題されたことがある。
「池田SGI会長は、著作(『私の釈尊観』)のタイトル(英語版)に、なぜ『ザ・リビング・ブッダ(生きている仏)』とつけた
と考えるか?」
「では『ザ・リビング・ブッダ』とは、だれのことか?」
学生の解答の中には、「仏」について、こう論じているものがあった。
「仏とは特別な存在ではない。自分自身を変革し、開発しゆく作業の中に仏は存在する。それは、実に啓発される視点である」
先生の著作は、海外の名門大学の学生に、知的触発を与えたのである。
77年の「教学の年」は、聖教新聞の元日付から池田先生の「諸法実相抄」講義の連載が開始された。その冒頭、先生は法華経の漢
訳者である鳩摩羅什について言及した。
羅什が仏典の翻訳に取り組んだのは、50歳を過ぎてからといわれる。驚異的な勢いで翻訳を進める彼のもとには、その名声を聞い
て、出家在家を問わず、多くの人々が集まった。
羅什はその人たちを前にして、講義形式で翻訳を進めていった。質疑応答のような形も取りながら、経文の真意を探り、原典の解
読に努めた。そのことを通して、先生は強調した。
「私どもの教学運動も、羅什と同じ方程式に則り、御書という教典を手にし、ある時は講義形式を取り、ある時は、質疑応答の形
式を取り、ある時は、個人指導の際に、人びとの呼吸を、直接、実感しながら、対話の場で仏法を展開していくのであります」
3回目の講義では、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱えしが、二人・三人・百人と次第に唱えつたうるなり……」(新
1791・全1360)の御文を拝し、訴えた。
「いつの時代にあっても、絶対に変わらない広宣流布の根本原理が、『一人立つ』ということです」
「諸法実相抄」講義は4回にわたって掲載された。その後も、「生死一大事血脈抄」「報恩抄」「法門申さるべき様の事」「撰時
抄」「開目抄」などの講義が本紙に掲載された。
激務の中、池田先生は、寸暇を惜しんで御書を拝した。その実践は、多くの同志が「御書根本」の戦いを起こす原動力となった。
宗教社会学者 安斎伸博士
日蓮大聖人の御書の中には、地方に住んでいる無名の庶民の一婦人に対して、本当にこまやかな慈愛を込めて励まされているお
手紙がたくさんあります。そこからは、教義うんぬんを超えた人間としての心の深さ、豊かさが、ひしひしと伝わってきます。
そういう人間性の昇華の姿を、私は多くの学会員のなかにも見いだしてきました。
宗教社会学者の安斎伸博士(前列左から2人目)が
旧・聖教新聞本社を訪問し、池田先生と語らう
(1984年12月22日)。
後に日顕宗が信徒蔑視の体質を露呈し、
権力が宗教弾圧の牙をむいた時、博士は強調した。
「もう一度、真の宗教とは何か、信仰とは何か、
という根本の原点に立ち返って、人権のために、
人道のために、立ち上がるべきです」
一人一人の同志が御書根本の大道を進むため、「教学の日」が設置されるようになったのは、1976年2月からである。
初の「教学の日」となった同年2月8日、福岡で激励行を続けていた池田先生は、二つの御書学習会の会場を訪れた。
一つが、篠栗町で開かれていた粕屋本部男子部の学習会。「開目抄」の研さんが行われていた。先生は、その場にいたメンバーと
握手を交わし、記念のカメラに納まった。
もう一つが、博多本部の女子部(当時)の学習会である。
先生は会場に到着し、皆と題目三唱をすると、講義を担当していた木下雅子さんに、「ありがとう」と感謝の言葉を。参加者に
「女子部は教学をしっかり学んで、福運をつけて幸せになってください」と呼びかけた。
当時、博多区女子部は教学の研さんとともに、小説『人間革命』の読了に力を注いでいた。その中で、木下さんは、第3巻「結実」
の章の一節を心に深く刻んだ。
「革命は死なり。吾れらの死は、妙法への帰命なり」「山本伸一は、妙法に帰命すべきわが宿命と使命を、深く強く自覚してい
た。それは、『最高に栄光ある青春の生きゆく道』の自覚であったが、また未知への恐怖をはらんだ自覚でもあった」「この革命
を強行した時、山本伸一は、既に妙法の革命家として、蘇生していたのである」
木下さんは、“自身の壁を破り、師弟不二の戦いを”と対話に駆けた。博多本部の女子部本部長の任命を受けた時には、九州女子部
をリードする弘教を達成。『人間革命』を“私の一書”とする多くの人材を輩出した。
47星霜を重ねた今も、変わらぬ思いで博多広布に歩く。「生涯、『先生と共に』『学会と共に』との心で戦い抜きます」
学習会の会場の「栄光館」を提供する峯本良子さんの家族にも、池田先生は「いい会館だね」と語りかけた。
その日の夜、先生は、良子さんと千代子さん(故人)姉妹を九州文化会館(当時)に招き、同行の友らと一緒に勤行。ピアノで
「荒城の月」などを演奏し、万感の励ましを送った。
良子さんは、「教学の日」に学んだ「開目抄」の一節「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべ
し」「つたなき者のならいは、約束せし事をまことの時はわするるなるべし」(新117・全234)を胸に、広布拡大の戦いに挑ん
できた。師との「約束」を果たすため、きょうも人間革命の大道を進む。
1960年、創価学会の第3代会長に就任したその年、池田先生の地方指導は、愛知から開始された。1月15日に、名古屋市公会堂で
行われた一般講義である。
席上、先生は「松野殿御返事」を講義。「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と、我らが唱え申す題目の功徳と、いか程の多少候べき
や」「勝劣あるべからず候」(新1987・全1381)を拝して語った。
「幹部が唱える題目も、一会員が唱える題目も、私が唱える題目も、皆さんが唱える題目も、功徳は同じです」
その上で、14種類の法華経の誹謗に言及し、同志を「軽んじる」「憎む」「嫉妬する」「恨む」心があれば、唱える題目に功徳は
なく、積み上げた福運を消してしまうと強調した。
名古屋市千種区の仲上治子さんは、この講義の翌月に入会した。
当時の学会組織は、新入会者が紹介者の組織に所属する「タテ線」の形態。仲上さんは東京の築地支部の一員になった。女子部の
班長は滋賀、組長は岐阜にいた。近くに声をかけ合う同志がいない中、“入会した以上はやり切る”と決め、勤行の実践から始め
た。
しばらくして、先輩から任用試験の話を聞いた。仲上さんは挑戦することに決めた。勉強会は都内で行われた。そこに、仲上さん
は求道の心熱く、名古屋から夜行列車に乗って参加した。
出題された問題で覚えているのは、“御本尊に罰と利益の御文があるが、これを書きなさい”。仲上さんは「供養すること有らん者
は福十号に過ぐ」「若し悩乱する者は頭七分に破れん」と答案用紙に書き、合格した。
かつて、バイクで自損事故を起こし、頭蓋骨を骨折。右半身にまひが残る可能性もあったが、無事に回復した。以来、「今まで生
きて有りつるは、このことにあわんためなりけり」(新2085・全1451)を指針として、学会活動に励んだ。
2019年、20年の2年連続で弘教を実らせた。名古屋に新たな広布の凱歌を──入会64年目の仲上さんの誓いである。
宗教社会学者で、敬虔なキリスト教徒でもあった安斎伸博士。沖縄、奄美の宗教を研究する中、創価学会に注目するようになる。
池田先生とも対談した博士は、こう述べている。
「日蓮大聖人の御書の中には、地方に住んでいる無名の庶民の一婦人に対して、本当にこまやかな慈愛を込めて励まされているお
手紙がたくさんあります。そこからは、教義うんぬんを超えた人間としての心の深さ、豊かさが、ひしひしと伝わってきます。
そういう人間性の昇華の姿を、私は多くの学会員のなかにも見いだしてきました」
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