• ただいま、Word Press 猛烈習熟訓練中!!
Pocket

〈世界に魂を 心に翼を 民音が開いた文化の地平〉第37回 

タンゴ・シリーズ

2023年2月25日

 

名もなき人々が育んだ“芸術”

 

          「民音タンゴ・シリーズ」で来日した演奏家と

          握手を交わす民音創立者の池田先生。

          人と人、国と国を結びゆく“音楽の力”を信じ、

          アーティストに最大の敬意を示してきた

              (1992年4月、東京・八王子市内で)

 

 若手随一の楽団「ラ・フアン・ダリエンソ」を迎え、魅惑のステー

ジを届けた第52回「民音タンゴ・シリーズ」は、今月21日に大阪で千秋楽を飾った。

引き続き、同楽団の公演は、舞台を台湾に移して行われる。

今でこそタンゴは、アルゼンチンを代表する芸術として世界で愛されているが、誕生してしばらくは“低俗で猥雑”“日陰者の音

楽”と揶揄されてきた。

「むしろタンゴは、下賤の者の文化として蔑まれてきた歴史があります」と、アルゼンチン国立タンゴ・アカデミーのガブリエ

ル・ソリア会長は語る。

19世紀後半、首都ブエノスアイレスの場末でタンゴは生まれたとされる。もっぱら演奏されたのは、移民たちの粗末な長屋が立ち

並ぶ、船員や港湾労働者らが集まる酒場だった。

キューバから来たハバネラ、欧州伝来のワルツやポルカ、アフリカ起源のカンドンベなどが歌い踊られ、やがて、これらが混然一

体となってタンゴが形づくられていったのである。文字や楽譜を書ける人もいなかったためか、その誕生の記録はほとんど残され

ていない(石川浩司著『タンゴの歴史』青土社などを参照)。

「タンゴは、庶民の中で生まれ、名もなき演奏家によって育まれた文化なのです」と、ソリア会長は力を込める。

20世紀初頭には、ドイツから持ち込まれたバンドネオンが主軸楽器となり、情感を巧みに歌う旋律が人々を魅了した。さらに、ラ

ジオやレコードの普及、タンゴを扱った映画のヒットなどによって、タンゴは国民が誇る芸術へと昇華していく。そして、あまた

のマエストロ(巨匠)の活躍が、世界にタンゴを広めていったのである。

「2009年、タンゴはユネスコの無形文化遺産に登録されました。こうしたタンゴの世界的な普及を振り返る時、欠かせない公演が

あります。それこそ、地球の反対側の日本で半世紀以上にわたって行われた、民音タンゴ・シリーズなのです」

 ◇ ◆ ◇

 タンゴ・シリーズが始まったのは1970年。その第1回を飾ったのは、ピアニストのホセ・バッソ率いる楽団である。

日本に発つ前日、アルゼンチンで行われたタンゴ・フェスティバルで、最優秀楽団に選ばれた。名実ともに“国内一”の実力を示し

ての来日に、ファンの熱気は一段と高まった。

“熱血”の異名で知られるバッソは、情熱あふれる編曲をバンドネオン4台とバイオリン4丁の豪華編成で披露。ツアー後は、そのま

ま大阪万博にゲスト出演し、鮮烈な印象を残した。

翌71年には“バンドネオンのエース”エクトル・バレーラが来日。その後もフロリンド・サッソーネ、フランチーニ&ポンティエ

ル、カルロス・ガルシーアといった名だたるアーティストが次々と来日している。

「年を経るたび、日本全国にタンゴファンが増えていくのを肌で感じていました」

そう話すのは、民音と共にタンゴに携わってきた株式会社ラティーナの代表取締役社長である本田健治氏。第6回公演(75年)以

来、招聘から舞台制作、構成に至るまで、長年にわたってタンゴ・シリーズをプロデュースしてきた。日本とアルゼンチンを往復

した回数は、優に200回を超える。

忘れられない公演がある。

76年に来日したレオポルド・フェデリコ楽団。バンドネオン奏者のフェデリコが、その巨?から繰り出す斬新な旋律は、肌にぴり

ぴりと感じるほど、迫力にあふれていたという。

「彼はアストル・ピアソラを愛していて、『ピアソラの楽曲を日本で演奏させてほしい』と私たちに相談してきたんです」

だが当時、ピアソラは革新的すぎたのか“タンゴの救世主”“タンゴの破壊者”と、評価は二分していた。民音公演で演奏するにも

「ピアソラは時期尚早だ」と否定的な声が多かった。

そこに、フェデリコの熱望を受け、ピアソラの3曲がプログラムに織り込まれたのである。

「事前の私たちの心配をよそに、どの会場も驚くほどの大喝采に包まれました。ピアソラの名曲は、世界に先駆けて日本で開花し

たんです」──本田氏が懐かしそうに目を細める。

「フェデリコは、よほど嬉しかったんでしょう。盛んな拍手に堪えきれず、あふれる涙をバンドネオンで隠すように演奏していま

した。その後、彼はアルゼンチン演奏家協会会長を務めています。会うたびに『民音の皆さんは、お元気ですか』と声をかけてく

れ、公演の思い出に花を咲かせたものです」

 ◇ ◆ ◇ 

 歴史をひもとくと、タンゴ・シリーズ1回あたりの平均は51ステージ。どの会場も期待に満ちた満席の舞台である。

民音でタンゴ・シリーズを担当し、来日した音楽家に随行していた福本博行さんは語る。

「民音ツアーを経験することで、演奏技術も表現も飛躍的に高まる──そんな実感が、アルゼンチンの音楽家の間で共有されてい

ると、何度か耳にしました。民音公演に選ばれることが、音楽家にとって、一つの目標ともなっていたのです」

日本全国を飛び回る公演は、過密かつ長丁場である。加えて地球の反対側。主にシリーズが開かれる2月は、音楽家にとって、真夏

の南半球から真冬の北半球にやって来ることになる。

同シリーズは、民音初となる南半球からの招聘でもあった。

ツアー中、アーティストが体調を崩すことがないか、公演に専念できているか……。福本さんは気が気でならなかった。

今も胸に残るのは、民音創立者・池田先生のこまやかな配慮の数々だという。「訪れる先々で送られる伝言をはじめ、目の届かな

い所にまで真心を尽くされる様子に、音楽家をどこまでも大切にする心を学びました」

タンゴ・シリーズが始まった70年当時、海外から招聘する公演は、クラシックやバレエといった内容が中心だった。もともとが高

価で、庶民にとっては縁遠かった芸術である。

「そうした中で、池田先生がタンゴを一つの芸術として最大に讃えられていたことが心に残っています」と福本さん。

「アルゼンチンでも、タンゴがクラシックなどから見下されていた時期がありました。しかし池田先生は“庶民の音楽だからこそ大

事にしていくんだ”と包んでくださったのです」

「芸術のジャンルによって、高尚な芸術と下品な芸術に分かれるのではない。大衆音楽にも磨き抜かれた超一流がある」──それ

が池田先生の持論である。

福本さんが言葉を添える。

「タンゴ・シリーズへの参加が、楽団にとって得がたい経験になったのはもちろんですが、その奥底では、そうした池田先生の芸

術観が音楽家たちに深く伝わっていたのだと思います」

 ◇ ◆ ◇ 

 民音タンゴ・シリーズが始まって以来、関係者が願い続けてきたことがある。

現代タンゴ界の頂点に立ち、“帝王”と称されるオスバルド・プグリエーセの招聘である。

79年、同シリーズは第10回の節目を刻もうとしていた。

来日する音楽家について本田氏らが協議を重ねる中、一本の連絡が入った。民音公演に名乗りを上げた人物がいるという。

電話の主はプグリエーセ。

ブエノスアイレスの下町に生まれ、庶民の音楽を守り抜いてきた“帝王”その人であった。

 

 

 

 

 

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください