2023年2月22日
茨木市の北摂文化会館で開催された
北摂総合本部(当時)の代表幹部会(1985年3月17日)。
池田先生は、吹田会館の訪問以来、
21年ぶりに北摂の地に足を運ぶことができた喜びを語り、
自他共の幸福と地域社会の発展に尽くす友の功労をたたえた
1951年(昭和26年)、第2代会長に就任した戸田城聖先生に、
池田大作先生は進言した。「日本の広宣流布の未来を考えた時、庶民の都・大阪にこそ、最も早く支部を建設するべきです」。
大阪に広布の一大拠点が築かれるならば、広布の波動は全世界へと広がっていくに違いない──それが、池田先生の確信
だった。大阪支部の設置が発表されたのは、翌52年(同27年)1月である。
1951年(昭和26年)12月、池田先生が住む大田区大森のアパート「青葉荘」に、一人の青年が訪ねてきた。
蒲田支部のメンバーだった白木義一郎さん(故人)。プロ野球の投手として活躍していたが、所属球団から、大阪の球団へ移籍を
通告された。そのことを相談に来た白木さんに、池田先生は語った。
「この大阪行きは御仏意だよ! 大阪に一大拠点を築き、関西、いな西日本に広布の大潮流を起こし、戸田先生の願業の75万世帯
達成への起爆剤になろう!」
翌52年(同27年)1月、白木さんは「大阪支部長心得」の任命を受ける。戸田先生は、“8月には大阪へ行くから、頑張れ!”とエー
ルを送った。
白木さんを乗せた夜行列車は、2月1日に大阪に到着。池田先生が蒲田支部で「二月闘争」を巻き起こしていた時に、関西創価学会
は産声を上げたのである。
半年後の8月14日、池田先生が夏季地方指導で、関西に第一歩をしるした。先生は、堺の座談会に出席した。
戸田先生の卓越した人柄、自らの肺結核克服の体験を語る、24歳の青年の確信は、参加者の胸を打った。この座談会で、7人の新
来者が入会を決意したという。
15日には、戸田先生が白木さんとの約束通り、初めて来阪。大阪市内で「仏教大講演会」が開催された。池田先生は「本当の幸福
とは何か」と題して、約30分にわたって講演。戸田先生も登壇し、質問会を行った。終了後、9人の参加者が入会を希望した。
この日、大阪支部は新たな出発をする。九つの地区の結成が決まり、地区部長が任命されたのである。その一つが、吹田地区だっ
た。
一人一人が力を発揮するならば
今の倍の勢力に広がっていく
吹田
「大阪で最初に結成された地区」──その誇りを胸に、吹田地区の同志は広布拡大に奔走した。
1964年(昭和39年)、吹田、河内、松原に大阪府下で初となる会館が誕生した。同年8月30日、池田先生は3会館それぞれの入仏
式に出席。吹田会館(当時)では、こう語った。
「日蓮大聖人の仰せの通りに、純粋に戦い切った人が最後の大勝利者になる」
「小さな会館ではありますが、この会館に集う人々の中から、多数の未来の大人材を育て送り出してもらいたい」
当時の吹田会館は、最も広い仏間でも8畳しかなかった。だが、友は“この会館から地涌の人材を輩出しよう”と燃えた。
後年、全国男子部長として戦ったメンバーや関西の方面幹部など、広布の中核を担う人材が陸続と、吹田会館から育っていった。
◆◇◆
吹田会館の開館から22年がたった86年(同61年)11月4日、北摂総合本部(当時)の中心会館となる吹田文化会館がオープンし
た。
同本部は吹田市、摂津市、茨木市、高槻市、島本町という大阪北部の地域が活動の舞台である。
同年11月10日、池田先生が会館を訪問。車から降りると開口一番、「きょうは天気がいいね!」と。そばにいた香峯子夫人が「春
みたいですね」と続けた。
先生は代表のメンバーと記念のカメラに納まり、勤行・唱題を。北摂総合本部の勝利と栄光を深く祈念した。
その後も、先生の訪問を聞き、会館に集まってきた50人ほどの同志と記念撮影。一人一人と握手を交わし、励ましを送った。
その場に集った小倉弘子さん。79年(同54年)7月、吹田圏の圏婦人部長(当時)の任命を受けた。先生が第3代会長を辞任して
から3カ月後のことである。
「第1次宗門事件の渦中でした。吹田から反転攻勢の突破口を開こうと誓い、戦い抜きました」
吹田広布の伸展を祈り、友の激励、対話に駆けた。8年後の87年(同62年)、吹田圏は2圏に発展。圏婦人部長として勝利の証し
をもって、師恩に報いた。
83歳の今も、広布への情熱は赤々と。小倉さんは力を込めた。
「先生の吹田文化会館のご滞在は、37分間でした。その間、一瞬に全精魂を注ぐようにして、励ましを送ってくださいました。37
年前の出会いですが、今も記憶に鮮やかです。今この瞬間に全力を尽くす戦いをしていきます!」
◆◇◆
86年11月11日、吹田支部結成25周年を記念する吹田圏の代表幹部会が開催された。
前日(10日)に師が会館を訪問した喜びに包まれた幹部会で、さらに友の歓喜がはじけた。池田先生が3首の和歌を詠み贈ったの
である。
「広宣の 大空飛びゆく 吹田号 二十五星霜の 偉大な軌跡よ」
「あの顔も あゝ懐かしき 関西の 元初に誓いし 地涌の人びと」
「懐かしき 小さき館の 吹田城 今は堂々 大城築けり」
先生の訪問の折、吹田文化会館の正面に桜の記念植樹が行われた。毎年、万朶と花開くその桜は、今春も爛漫と咲き誇るに違いな
い。
吹田摂津総県の友の凱歌をたたえるかのように──。
茨木
1983年(昭和58年)10月22日、茨木市に誕生した北摂文化会館の落成入仏式が行われた。
テープカットをした高槻市の松本綾子さん(故人)。吹田支部の初代支部婦人部長を務め、北摂広布に一直線にまい進した。松本
さんは感無量の面持ちで語った。
「かつては人材も少なく、大変でした。しかし、きょう集った立派な人材群を見てください!」
2年後の85年(同60年)3月17日、池田先生が同会館を訪問。北摂総合本部の代表幹部会が開催された。
この日を目指し、北摂の友は怒濤の対話拡大を展開。婦人部(当時)は「グループ1」、男子部は「地区1」の弘教をもって、師を
北摂文化会館に迎えた。
広布拡大の勝利に沸く幹部会の席上、先生は語った。
「北摂は人材の宝庫である。多くの人材を輩出した地域には功徳の花も大きく咲き誇り、また広布の歴史が残っていく」
「広宣流布の人材を育成することは大変な労を要することであるが、人材を一人でも育てれば、それだけその地域の広布が進み、
その地域が功徳に潤う」
「数多くの広布の人材が陸続と育った北摂の地に、不思議な、そして偉大なものを感じる」
「一人一人が成長し、その力が発揮されていくならば、今の倍の勢力に広がっていくことができよう」
「関西は全日本、全世界の模範として、活力を与えゆく大原動力となる使命がある」
幹部会に参加した門展美さん。「わが地域からの人材輩出とともに、自分自身が成長していこうと決意しました」
91年(平成3年)、茨木圏の圏婦人部長(当時)に就任。“茨木を師弟の人材城に”と、一人一人の激励に東奔西走する中、宿命が
襲ってきた。
おなかが腫れ、検査を受けた。卵巣に境界悪性腫瘍が見つかった。
「ほかの臓器に転移の可能性があり、その場合は3カ月の命です。転移がなくても、卵巣、子宮を摘出した方がいいです」と医師に
宣告された。
弱い心が頭をもたげた。だが、先輩の厳しくも温かな励ましに、“必ず宿命転換してみせる”と腹を決めた。
幸い転移はなかった。摘出手術も成功。退院後、体調を見ながら、友の激励に歩いた。門さんの闘病体験は多くの友を鼓舞し、自
らの宿命に信心で立ち向かう、地涌の陣列が広がった。
その後、再発もなく、師へ誓った「人材輩出」の歩みを続けた。現在も、組織の第一線に入り、自らの信心の確信を語っては、友
の胸中に希望の灯をともしている。
門さんは語る。
「広布拡大に懸命に挑戦する同志を励まし、たたえる。生涯、この“励ましの道”を歩んでいきます」
高槻
北摂総合本部の代表幹部会に集った高槻市の吉田稔さんは、幹部会終了後の池田先生との懇談会にも参加した。
その場で、先生は人材の育成、信心の姿勢、活動のあり方などに言及。「広布の戦いは『臨終正念』の思いで戦うことが大切であ
る」と語り、「戦いの過程において、どれだけ自分自身の境涯を拡大できるかで、勝敗は決まってくる」と訴えた。
吉田さんは当時、西高槻圏の圏長の任命を受けて2カ月。どんな戦いも、真剣勝負で臨むことを自らに課し、指揮を執った。
入会は、1958年(昭和33年)8月24日。故郷の佐賀から就職で大阪に来た、18歳の夏だった。
地道に、愚直に信心に励んだ。66年(同41年)9月に甲子園球場で行われた“雨の関西文化祭”では、人文字の北摂方面の責任者と
して奮闘を重ねた。
雨の中で披露された、2万2000人の一糸乱れぬ“動く人文字”は、会場を感動で包み、マスコミにも大きく取り上げられた。
文化祭の終了後、先生は「100点満点だ。いや、120点だ」と出演者をたたえ、「今日を“常勝関西”の新しいスタートにしようよ」
と語った。
吉田さんは、文化祭の感動をありのまま、友人に語った。2カ月後の11月、1カ月間で8人に弘教を。自らの広布勝利の結果で、
「新しいスタート」を切った。
その後も、学会一筋の人生を歩んだ。文化祭で心に刻んだ“負けじ魂”で、全ての広布の戦いに率先した。
今年は入会して65周年の節目。だからこそ、“史上最高の戦いを”と誓う。
──2001年(平成13年)7月、池田先生は高槻常勝県(現在は高槻常勝県、高槻栄光県)の友に、和歌を贈った。
「偉大なる 常勝県に 勝利あれ 一人も残らず 幸福長者と」
「この人生 君も あなたも 最高に 価値ある宝を 光らせ 勝ちとれ」
「高槻の 人材城に 万歳を 私は贈らむ 偉大な弟子なば」
◆◇◆
2007年(同19年)に発表された長編詩「永遠の常勝関西を讃う」。その中で、池田先生は詠んだ。
「広布の天王山を決しゆく/北摂の大地へも/私は逸る心で走った。/民衆の勝利の暁鐘を/わが友と打ち鳴らすために!」
吹田、茨木、高槻など、北摂方面の地域は、池田先生が幾度もたたえ、励ましを送り、共戦の歴史を刻んだ、使命深き天地であ
る。
さあ、新たな広布の天王山へ!──「人材の宝庫」の底力を発揮する時は今だ。