〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉
2023年2月16日
東畑開人さん
人のつながりが、支えにも、傷つけ合いにもなる、この社会。私た
ちは、いかに生きるべきなのか――。15日付の㊤に続き、臨床心理士
の東畑開人さんに聞いた。
「敵じゃない」
──インタビューの前半(上.=2月15日付)では、誰かに「聞いてもらう」「心配してもらう」ことが、心の回復につながると
語っていただきました。臨床心理士として、メンタルヘルスの不調を抱えた人たちと向き合ってきた経験から、心をどう捉えるか
について教えてください。
『野の医者は笑う』という本で、“心の回復とは生き方の調整である”ということを書きました。裏返せば、メンタルヘルスの不
調は、今の環境でうまく生きられないという、“生き方の不調”でもあります。
目には見えない心は、いかにして回復するのか。科学の知だけでは、完全な答えを出すことはできず、臨床の知が必要になりま
す。そこに臨床心理士の仕事があるわけですが、宗教もまた、“いかに生きるか”を示すという意味では、共通点も多いと感じてい
ます。あるいは、歴史と伝統を踏まえれば、最初にこれを扱っていたのが宗教で、その後に臨床心理学が出てきたというのが実情
です。
臨床心理学と宗教。二つに共通するのは「信じる」ことを巡る営みである点です。
カウンセリングに来られる人たちの多くが、他者を信じられなくなっていて、自分のことも信じられなくなっています。人生に絶
望していて、周りは「敵だらけ」と感じています。
だから、彼らがもう一度、何かを信じられるようになるには、目の前の人を「敵じゃない」と思えることが必要です。確かに、同
じ空間で、すぐそばにいる他者は、危害を加えてくる可能性もあるわけですね。でも、そこで「この人は傷つけてこない」「この
人なら話しても大丈夫そうだ」と思えるかどうか。当たり前のようですが、それが第一歩となって、少しずつ、「人を信じるこ
と」が回復していきます。
多分、信じるというのは、希望を抱くということなのだと思います。エリクソンという心理学者は、人間の発達段階の最初の課題
を「基本的信頼」と言っています。世界は善いものだという感覚を抱けるようになることは、心の発達にとって大事だということ
ですね。だけど、それが課題にされているように、信頼を持つことは難しいというのも実情です。そのためには、安心できる他者
が必要なんですね。
シェアとナイショ
──人とのつながりの中で、傷つくことを恐れてしまう人もいると思います。
人のつながりは本来、両義性を含みます。自分を癒やしてくれるものでもありますが、時に、自分を傷つけるものにもなりう
る。そう捉えられるだけで、心の持ちようは変わってくると思います。
他者とつながるときの二つの原理を、社会学では「共同性」と「親密性」といいますが、私はこれらを「シェアのつながり」と
「ナイショのつながり」と呼んでいます。
「シェアのつながり」は、文字通り、皆とシェア(共有)することでつながる関係です。難しい仕事を一緒にやった同僚、子育て
を共有したママ友、青春を共に過ごした友人などです。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、時間や場所、活動などを共有する
と、私たちは自然に友達や仲間、同志になります。
一方で「ナイショのつながり」は、例えば恋人やパートナーとの関係といった、その人の内緒に一歩、深入りするようなつながり
のことです。
「シェアのつながり」の本質的な価値は、傷つきを共有することにあります。ママ友同士で子育ての大変さや、出産でキャリアを
中断した悔しさなどを共有していけば、何かあった時に支え合い、励まし合う関係になります。誰かがつらい思いをしたとき、そ
の人の代わりに怒ったり、愚痴を言ったりもします。
互いに傷つきをシェアし、理解し合っているから、これ以上傷つかないように、さまざまな配慮が交わされます。つまり「傷つけ
ない関係」をつくっているといえるのです。
反対に、「ナイショのつながり」は、「傷つけ合う関係」といえます。互いの奥深くに触れようとするからこそ、時に摩擦が起き
て、傷つけてしまう。
でもそれは、接触を試み続け、信頼と理解を構築し続けていることの証しでもあるのです。相手との間に摩擦が起こるのは、関係
性を磨き合っていることでもある。
私たちのほとんどは、「シェア」と「ナイショ」のどちらも経験しているはずです。でも、他者に踏み込んだり、踏み込まれたり
するナイショのつながりには、傷つくリスクが伴う。だから最初は、シェアでつながる方がいい。
何かあったときに、手助けし合える「シェアのつながり」の居場所づくりは、今、地域のコミュニティーやインターネット上で
も、盛んに試みられています。皆で集まり、自分の傷つきを分かち合う。その場では、傷つけられることを心配せずに、安心して
いられる。こういうものが心を支えてくれます。
その上で時々、より深いつながりを求めるのも人間です。普段は何でも相談していた仲間や友達と、時々、互いの気持ちや意見を
激しくぶつけ合うこともあります。そんな時、私たちは「ナイショのつながり」で結ばれます。全ての人と、ナイショでつながる
必要はありませんが、それでも時に、あえて危険に飛び込んで、他者に深入りすることも大切ですよね。
「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれば傷つくこともある。そのとき
は、関係性を再構築していく。人間は未熟で不完全な存在だからこそ、その繰り返しなのだと思います。
その中で「この人は信頼できる」「大丈夫だ」といった感覚が芽生えていく。シェアとナイショのつながりを行ったり来たりする
中で、根拠はないけれども確実な、相手に対する信頼が育まれていくように思います。
「第三者」の価値
──近著『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)では、対話を通して問題を解決するのではなく、対話できること自体
が最終目標である、と書かれています。その際に「第三者」がいることが重要といわれていますが、どういうことでしょうか。
「聞く」こと、「聞いてもらう」ことがうまくいくためには、「第三者」がいることの意義は大きいと考えているんです。
例えば、職場の上司との関係に悩んでいる時、その上司に直接話すのではなく、友人にそっと話してみる。自分の複雑な事情を聞
いてもらい、苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みが詰まっていた心に空きスペースができます。第三者がいることで、当事
者は助かるのです。
仕事の悩みを、職場が異なる友人に話しても、現実的な問題解決にはならないかもしれません。でも、「それはひどいね」と言っ
てもらうだけでも、苦しかった心はケアされます。
実際、私たちの悩みは複雑で、すぐに解決することの方が少ないかもしれません。そうした悩みの中で、様子を見るように、時間
がたつのを待つこともありますね。
作家の帚木蓬生さんらが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)」という考え方がありま
す。これはビオンという精神科医が取り入れた概念ですが、元々は、赤ちゃんの世話をする母親の能力のことです。ギャーギャー
と泣いているのを受け止めて、なぜ泣いているのだろうかと考える。答えは分からないけれど、考える。それ自体がネガティブ・
ケイパビリティである、と。それはまさに「聞く力」でもあるのです。
大切なのは、母親がネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのは、誰かのネガティブ・ケイパビリティによって支えられている
から、ということです。「聞く人」の後ろに、また別の「聞く人」がいる。ケアする人がケアされているという連鎖が、大切なの
だと思います。
「ミクロな親切」
──第三者として身近な人の話を「聞く」ことなら、普段の生活の中で、私たちにも実践できると感じます。
臨床心理に携わる中で、たどり着いた一つの結論は、「心のケアは専門家ではなく、普通の人同士の支え合いによるものだ」と
いうことです。
すでにお話ししたように、ケアに欠かせない「聞く」という行為は、日常の、ごく普通の営みです。多くの時間を共に過ごす家族
や友人などが、傷ついた人の心を癒やすのが、ケアの本質です。
一方で、人のつながりは、時に傷つけるものでもある。そうした周囲の人同士の支え合いがうまく回らなくなったときに、「聞
く」やケアを再開させていくのが、専門家の役割なのです。
医療人類学者のクラインマンは、それぞれの地域には人々の健康をケアするシステムがあると言いました。そこでは「専門職セクター」「民俗セクター」「民間セクター」の三つが補い合いながら、私たちの心身の健康を保たせようとしています。
専門職セクターは、医師や看護師、心理士などの専門家のこと。民俗セクターは、非公認の専門家という意味で、アロマセラピス
トや占い師などが含まれます。この二つの境界線は、時代や社会によって変わっていきます。
大切なのは、最後の民間セクターです。これは、同僚や友人、家族といった、専門家ではない人が行うケアのこと。クラインマン
は、「ケアの主役」は民間セクターであると言います。
例えば風邪をひいた時に、病院(=専門家)に行く前に、自分で治そうとする人も多いですよね。よく寝たり、栄養のあるものを
食べたり。そこには、ご飯を作ってくれる家族や、自分の仕事を代わりに担ってくれる同僚など、周りの人によるケアがありま
す。それによって、大体の問題は解決できてしまう。日常のケアのかなり多くの部分が、民間セクターでなされているんです。
専門家の仕事は、そうした日常の支え合いがうまくできなくなった時に、普通の人同士のケアを再開できるように手助けすること
です。
私たちの周りには、身近な人同士でケアし合う、つながりがあります。誰かが自分をケアしてくれ、自分も誰かをケアしている。
先ほど、臨床心理学は「信じる」ことを巡る営みだとお話ししました。絶望を感じている人を相手にしても、この人の中にある希
望の可能性を信じる。臨床心理士としての根っこの部分には、そうした楽観主義があります。
日常の生活の中で、身近な人を気にかけて話を聞き、傷つけたり、傷つけられたりすることがあるとしても、それでもなお「信じ
る」。時には、我慢が必要かもしれません。それでも「ミクロ(微小)な親切」を重ねることが、より良い社会をつくることにつ
ながっていくと思います。