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〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

インタビュー㊤ 臨床心理士 東畑開人さん

2023年2月15日

 

相手の話を「聞く」ことは
心の「荷物」を預かること

 

今、社会では「聞く」が不全に陥っていると、臨床心理士の東畑

開人さんは語ります。普段は何気なくそこにありながら、失われた

時にふと気づく、「聞く」の価値――。それを取り戻す鍵に、上下

2回で迫ります。

 

対話できない時代

 ──東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技

術』(ちくま新書)です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。
 
 以前から、私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じていました。そこにコロナ禍が起き、例えばワクチン接種やマ

スクの着用などを巡って、社会にさまざまな対立が生まれました。しかも、それは単に政治の世界での対立ではなく、友人や家族

の間で、もめることすらあります。

対話が大事なのはもちろんそうですが、このような状態で「対話しなさい」と言っても、けんかして、傷つけ合うだけです。対話

を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。

ここで言っているのは、「聴く」ではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れるこ

と。一方で「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聴く」よりも、「聞く」の方が、ずっと難しい

のです。

例えば「ちゃんときいてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知っ

てほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。

あるいは「愛している」と言われて、「この人は何が目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たち

は、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた」と言われて、とっさに「でも、君にも問題が……」

と、相手の言葉をはね返してしまうこともあります。

相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされ

る機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。

「聞く」ことができなくなっている理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっていること。給料が上がらな

かったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人は周りの話を聞けなくなります。 二つ目は、価値観があまりに

多様化し、相対化していること。“正しさは人それぞれ”という相対主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、

根源的な難しさがあります。自分が思う“正しさ”に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果、

「聞く」ことができなくなるのだと思います。

不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、なんとか

して自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状態はもはや「社会」とは

呼びにくいものかもしれません。

 

「空きスペース」

 ──「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから始めようと提案されています。
 
 「聞く」ことができないのは、自分の中の「空きスペース」の問題だと捉えられます。不安があふれて、聞けない状態は、自分

の中に荷物がいっぱいに詰まっていて、人の話が入り込むための「空きスペース」がない状態である、と。「完璧」ではなく「ほ

どよく」

 

 

                      東畑開人さん

身近な人を“気にかける”

 そう考えると「聞く」を再起動させるには、自分の中の荷物を、

誰かに「預かってもらう」ことが必要です。それが「聞いてもらう」

ということです。

聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に、“余白”が生

まれる。すると、今度は自分が、人の話を聞けるようになるのだと

思います。

現代では、話すことは単なる情報の交換のように思われがちです。けれど、そうなると「聞く」には無力感すら漂います。「聞い

てもらっても、現実は変わらない」というように。

でも実は、聞いてもらうことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで、自分の中の重たいものが取れていきま

す。

聞いてもらうことには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」という実感があり、それが人に安心を与えるということ

を、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。

不安でいっぱいの人の横にいて、なかなか人に伝わらない複雑な経緯や事情を、その複雑な話のまま聞いていく。特別な言葉をか

けられなくても、「それはひどいよね」と言ってあげるだけで、その人の心は少し軽くなります。

医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンは、全身やけどを負った少女の事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを

伴いましたが、クラインマンは、その痛みを和らげる手だてが何もないことに絶望しました。しかし、彼がとっさに少女の手をつ

かみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができた、と。

人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分のことを分かってくれる人はいないと感じることかもしれません。そう考えると、

「聞く」ことには、現実をすぐに変える力はなくとも、孤独の痛みを癒やす力があるのだと思います。

 

環境としての母親

 ──「聞く」を取り戻す上で、心がけるべき点は何でしょうか。
 
 聞くことは本来、魔法のようなものではなく、日常生活の平凡なやりとりであるはずです。例えば、「行ってきます」と言われ

たら、「行ってらっしゃい」と返し、「ちょっと疲れた」と言われれば、「早めに寝なよ、食器は洗っておくから」と応えるよう

に。

こうしたごく当たり前のことを、当たり前にできているとき、「聞く」はうまくいっています。そういうときは、日常生活で交わ

された言葉をいちいち覚えていないし、「聞いてくれてありがとう」と、わざわざ感謝もしないものです。

でも時に、この「聞く」がうまく回らなくなることがあります。緊急事態がやってきて、それまでの日常が崩れていくと、私たち

は不安になり、聞くことに失敗し始めるわけです。

これを考える上で参考になるのが、小児科医でもあった精神分析家のウィニコットが提唱した、「対象としての母親」「環境とし

ての母親」という考え方です。

「対象としての母親」は、私たちが今、思い浮かべている母親の姿のことであり、一人の人としてのお母さんを指します。

これに対して、「環境としての母親」は、普段は意識されない母親のことです。例えば、子どもの頃、たんすを開けると、きれい

にたたまれた洋服が入っていました。本当は母親が洗濯をし、たたんでくれたからそこにあるのですが、子どもの頃は、そんなこ

とまで考えなかったはずです。

このように、普段は気づかれない「環境としての母親」は、失敗したときにだけ、気づかれます。たんすに洋服が入っていないの

を見て、「お母さん、どうかしたのかな」と思い出すように。このとき、お母さんは初めて「対象としての母親」として意識され

ます。

普段は母親の存在が忘れられているということは、子どものお世話がうまくいっているということです。でも、成功し続ける「完

璧(perfect)」な母親でいると、子どもは何もしなくてよいので、成長しません。母親が、自分の世話をしてくれていることにも

気づかない。

だからウィニコットは、良い子育ては完璧ではなく、「ほどよい母親(good enough mother)」によってなされると言ってい

ます。「環境としての母親」が、時々失敗するからこそ、子どもは「対象としての母親」を意識します。自分はお母さんに何かを

やってもらっていたから、生活できていたのだと気づく。その繰り返しの中で、子どもは成長していきます。

ここで紹介した「環境としての母親」は、「聞く」ことに似ていると私は思います。普段はうまくいっていて、特に意識すること

なく自然に循環していますが、時々それは失敗する。自分のことでいっぱいになり、相手に考えが及ばなくなったりします。する

と、家族や恋人から、「ちゃんと話を聞いてよ」と声が上がる。そうしたとき、私たちは改めて「聞く」を回復しなくてはなりま

せん。

でも、失敗したとしても、やり直せばいいわけです。母親が、今度は忘れずに、たんすに洋服を入れておくように、家族や恋人に

「ごめんね」と伝えて、今度は真っすぐに話を聞く。この繰り返しが“ほどよく”聞けている状態なのだと思います。

 

責任が分担される

 ──相手の話を聞こうと思えば思うほど、「本当に聞けているのか」と不安にもなります。この点をどう捉えるべきでしょう

か。
 
 聞いてもらう側の視点で考えれば、誰かに「心配してもらっている」ということが、一番大切なのだと思います。

「ちゃんと聞いてもらえたのか」と考えると、ついつい完璧を目指して、せっかくそばにいてくれている人に対して厳しくなりが

ちです。でも、もっと単純に、自分が大変な事態に陥ったときに「ちょっと今、困っていて……」と言える人、それを心配してく

れる人がいることで、「自分は一人じゃない」と思えます。それが、生きる力になります。

聞く側にとっても、「心配する」「気にかける」くらいが、ほどよいと思います。「受け入れる」「寄り添う」だと、仰々しいか

もしれません。もちろん、後から振り返って「あの人に寄り添えた」と思うことはあっても、最初から寄り添おうとすると、少し

重い気もしますから。

「心配する」「心配される」くらいであれば、対面であってもオンラインであっても、さまざまな手段で良いと思います。形式で

はなく、聞いてくれる存在がいるかどうか。LINEのメッセージで「大丈夫?」と送るだけでも、自分がその人を心配していること

は伝わりますし、それはそのまま、その人のことを支えることにもなります。

現代社会では、とかく「自己責任」が問われます。もちろん、法的な責任などを突き詰めれば、自分でしか責任を取れないことも

あります。けれど、誰かに聞いてもらうことは、自分の責任が分担されることだという感覚が、私たちの中にあるのも確かだと思

います。

大変な状況に陥ったときに、「あいつも心配してくれるはず」「一緒に考えてくれるだろう」と思える人がいる。たとえ1%でも、

自分の人生のつらさを分け持ってくれる人がいる。その人たちは、孤立しません。

時間がたつほど事態が悪化することもあれば、時間をかけることで事態が良くなることもあります。時間は毒にも薬にもなる。

その分かれ道は、大変な時間を“他者と共有しているかどうか”だと思っています。

孤立している人は、自分一人で何とかしようとして、事態を余計に悪い方向に向かわせがちです。一方で、心配してくれる誰かと

つながっている人は、時間の流れの中で、事態を好転させることができる。

臨床心理士として高度な理論を学ぶほど、心は本当に複雑だと痛感します。しかし、人のつながりの有無というシンプルなこと

が、心にとって決定的に重要であるというのもまた、私の実感の一つです。

誰かに心配してもらい、自分も誰かを気にかけるといった、身近で小さなことから、「聞く」が回復され、人生のサイクルが回っ

ていくのだと感じています。

感染症の拡大、度重なる自然災害、世界各地での紛争などによって、多くの人が不安を抱える時代だからこそ、「聞く」ことの意

味を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。
 
 ──インタビューの下.(明16日付に掲載予定)では、臨床心理士として考える「信じる」ことの価値、「シェア(共有)」と

「ナイショ」という2種類の人のつながりなどについて、さらにお話を伺います。

 

 とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士・公認心理師。博士(教育学)。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄での精神科クリニック
勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを開業し、主宰を務める。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。著書
に『居るのはつらいよ』(医学書院)、『野の医者は笑う』(誠信書房)などがある。

 

 

 

 

 

 

 


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