〈Switch――共育のまなざし 池田先生の励ましの言葉から〉
2023年2月10日
韓国・済州大学「名誉文学博士号」授与式の席上、
民族衣装を着た少年少女から花束を受け取る池田先生ご夫妻
(1999年5月、同大学で)。
ご夫妻はこの2人に手紙を贈った。
「花、ありがとう! 心、ありがとう! 瞳(ひとみ)、
ありがとう! 韓国、ありがとう! 平和と幸福の花束をいただき、
ありがとう! 一生、皆さまが、幸福で、平和でありますよう」と
いわゆるZ世代(1990年代中盤以降に生まれた人)は、人権意識が比較的高いといわれています。SNSを通じて国内外の話題や
著名人からの情報発信に触れる機会が多く、人種問題やジェンダー(社会的・文化的に形成される性差)の不平等、LGBTQI+(性
的少数者の総称)への差別などが身近に存在していることを知り、同世代で意見を交換する場面も少なくないからです。家庭にお
いて、わが子と「人権問題」について語り合ったことがあるという親御さんも、いるのではないでしょうか。今回は池田先生の
『青春対話』の中から、「人権って何?」とのテーマで先生が未来部員に向けて伝えた言葉を、抜粋して紹介します。
「桜梅桃李」こそ
──春が近づいてきました。梅が咲き、桃が開き、やがて桜の季節を迎えます。池田先生は語りました。
「冬来たりなば、春遠からじ」と詩人のシェリーは歌ったが、どんなに苦しく寒い冬が続いても、冬は必ず春となるのです。
これが宇宙の法則であり、生命の法則です。だから人間も、どんなにつらい冬が続いても、希望を捨ててはいけない。希望をなく
さない限り、必ず春が来る。春とは「開花」の季節です。
何度も言うように、仏法では「桜梅桃李」と説いている。桜には桜の美しさがある。梅には梅の香りがある。桃には桃の彩りがあ
る。李には李の味わいがある。人それぞれに使命があり、個性があり、生き方がある。それを認め、尊重することです。それが自
然です。
現に、花たちの世界はそうなっている。百花繚乱です。ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」をしたり、「い
じめ」をしたりする。人権の破壊です。ここに根本的な不幸が生まれる。
だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。自分にもある。人にもある。それ
が人権です。人権を尊重しないだけでなく人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものです。人権を大切にし、
人を尊敬できる──そういう「自分自身の確立」が必要です。
心が貧しいから
──どうして差別をするのか。日本においても近年、在日外国人へのヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会全体で問題視されるよ
うになりました。インターネット上や駅前などで「◯◯人は日本から出ていけ!」等の侮蔑的な言葉を見たり聞いたりしたことが
あるという子どもたちは、残念ながら少なくありません。
外国人を「同じ人間」として見られない。それは心が貧しいからです。自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもって
いないからです。哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる
「畜生」の心──その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
大事なのは「人間として」生きることです。それなのに、多くの日本人は、「人間として」生きる前に、「日本人として」発想し
てしまう。心の狭い島国根性です。少しでも「異質」だと思うと排除したり攻撃する。
◆◇◆
「人間として」という根本を教えなければならない。まず、教育で人権意識を大いに高めなければならないでしょう。教育でも
人権を教え、宗教でも人権を教え、政治では人権を尊重していく。その他、万般にわたって、人間を「手段」ではなく、「目的」
として見られる社会を作らなければ、永久に差別社会、不幸な社会、不平等な社会、弱肉強食の動物的な社会は、なくならない。
流転を繰り返すだけです。
何のための勉強か
──やはり、教育の問題は大きいでしょう。そもそも「学校の成績が悪いというだけで、人間として下に見られたり否定された
りしているような気がする」といった悩みを抱えている子がいるのも実情です。
勉強は当然、大切です。しかし勉学は、「人間として」自分を豊かにしていくためにある。また、より多くの人に貢献していく
ためにある。成績は、そのための一つの目標にすぎない。それが、勉強に励んだ結果、人間性をなくしてしまうのなら、本末転倒
です。第一、その人が、どういう人なのか、試験の数字だけでわかるわけがない。
『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)と言えば、“20世紀の古典”と呼ばれる傑作です。こんな一節があった。「新しくできた
友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉
とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん
人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、
きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです」(内藤濯訳、岩波書店)
人間を「数字」で見る大人の愚かさです。そこでは「肝心かなめ」の「人間」が、すっぽり見えなくなってしまう。そもそも、子
どもの心は、本来、人を差別したりしない。親が偏見を植えつけなければ、黒人も白人もアジア人の子どもも、一緒に楽しく遊ぶ
ものです。
また、家がお金もちだとか、お父さんがどんな地位だとか、子どもの世界には何の関係もない。子どもは本来、「人間は皆、平等
だ」ということを知っているのです。
創価学会の運動とは
──「人権について学ぶ」といっても、単に知識として頭に入れるだけではなく、「人間観」を深めていくことが大事です。
先生は“人権は勝ち取るものだ”と訴えました。
人権を学ぶには、哲学を学ぶことです。それは、仏法を学ぶことに通じる。そして「哲学」とともに大事なのは、「闘争」で
す。叫ばず、戦わずして、人権は勝ち取れない。たとえ、制度や法律で保障されていても、人権闘争を続けなければ空洞化してし
まう。中身が、からっぽになってしまう。なぜか。それは権力というものは、人権を好まない魔性があるからです。国家権力にせ
よ、他の権力にせよ。
人権は「一人の人」を大切にする。かけがえのない「一人」として、開花させようとする。反対に、権力は人間をマス(集団・か
たまり)でとらえ、物質のように扱い、数字や記号にしてしまう。それと戦っているのが創価学会です。
「一人の人を大切にする」人権闘争です。
戸田先生の原点は、どこにあられたか。それは、恩師牧口先生の獄死でした。牧口先生の死について語るとき、戸田先生は、いつ
も目に涙をためて、こぶしを握りしめ、憤っておられた。なぜ恩師は死ななければならなかったのか。なぜ正義の人が迫害される
のか。なぜ愚かな戦争を避けられなかったのか。痛恨きわまる思いであった。
牧口先生は死して牢を出られた。戸田先生は生きて牢を出られた。戸田先生の使命の自覚は鮮烈でした。牧口先生を殺した「権力
の魔性」を、断じて打ち破るのだ。それには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。根本の「人間」を変えるしかな
い。民衆が強くなるしかない。民衆が賢くなるしかない。そして世界中の民衆が心と心を結びあわせていくんだ──と。
創価学会の運動は、民衆による民衆のための人権闘争なのです。
本当の教養を
──その創価の民衆運動の尊さについて、先生はさらに力を込めて語ります。
病苦と経済苦に疲れきった人。人間関係に押しつぶされ、人生に絶望した人。家族がバラバラで、すさんだ心の荒野をさまよう
人。光の当たらない、あらゆる苦悩をかかえた民衆に手を差し伸べ、ともに同苦し、ともに立ち上がってきたのが創価学会です。
諸君のお父さん、お母さんは、そういう「人間のための闘争」に生きてきた。名誉もいらない、地位もいらない、ただ「人間とし
て」人間愛に生きぬいた。泥沼のような醜い社会の中で、一筋に大いなる理想に生きぬいてこられた。最高に尊い方々なのです。
その「心」を諸君は受け継いでほしいのです。その「人間愛」を世界に広げてほしいのです。
──先生自らも「人間愛」を広げるため、世界の多くの「人権の闘士」と友情を結んできました。そうした交流を振り返りつつ、
先生は未来部員に「まず自分が自分を大切にし、誇りをもって毅然と生きることです。その人が、他の人も大切にできるのです」
と訴え、こう呼びかけます。
人のよいところを認めあう。人の個性を認めあうのは、人権の第一歩です。違いがあっても、「同じ人間なのだ」という、しっか
りした人間観をもつことです。
◆◇◆
だれに対しても「同じ人間として」付き合える人こそ、「優秀な人」であり、本当の教養がある人です。自分の人間性が豊かな
分だけ、他人の中にも、人間性を発見できる。人をいじめたり、いばったりする人間は、その分、自分の人間性を壊しているので
す。
◆◇◆
世界を照らす「太陽」は「人権」です。人間愛です。思いやりです。優しさです。その太陽の光によって、社会に「桜梅桃李」
の万花が絢爛と咲き誇っていくのです。人権という太陽を21世紀に昇らせるのが、諸君の使命です。
そのために、まず自分自身の胸中に、人間愛という「勇気の太陽」を昇らせてほしいのです。