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〈地域を歩く〉 

札幌市北区 三代に連なる開拓魂で 冬を越えて歓喜の春へ

2023年2月10日

 

畑浩昭さん。

リゾートホテル「シャトレーゼ ガトーキングダムサッポロ」で

“ホテルの顔”であるフロント業務を担う

 

 札幌市北区の街並みを札幌駅のJRタワー展望室から望む。

 駅の北口周辺は、2030年の北海道新幹線の札幌延伸に向け、

 高層マンションやオフィスビル、商業施設などの建設が進み、

 その奥には住宅地や屯田防風林などの豊かな自然が広がる

 

 それぞれの地域には、その地にしかない歴史があり、魅力が

あり、誇りがあります。日本の各地を訪ね、その地で生き抜く

学会員を追う連載「地域を歩く」。今回は北海道・札幌市北区を訪れました。

 

 「北区にきたくなる」

ある地域の観光案内誌の表紙に、こんな言葉を見つけた。札幌市北区が昨年、区政50周年の時に発行したものだ。

ベタなダジャレか……とも思ったが、どことなく芯の強さを感じさせる。

そこまで言うのならと、その案内誌を開いてみた。

7・5キロもの長さの桜並木をはじめ、ポプラやイチョウの並木道。季節を問わず野鳥と出あえる緑地……。絶景の数々に息をの

む。

かつて、この地には青春歌人・石川啄木も足を運んだという。滞在はわずか2週間ながら、「寔に美しき北の都なり。初めて見たる

我が喜びは何にか例へむ」(『啄木全集』第4巻、筑摩書房)と言葉を尽くした。

さらに調べてみると、ここは明治初期、屯田兵が開拓した土地で、ヒグマと素手で戦ったという何ともたくましい開拓農民の逸話

まで残る。

そして本年は、戸田城聖先生が第2代会長に就任後初めて北海道を訪れた「北海道広布開拓70周年」。その折、北区も歴史の舞台

となった。

確かに、知れば知るほど行きたくなる。今回は、札幌市北区へ向かった。

JR札幌駅の北口を出ると、そこは北区。北口は、札幌市に10ある区の中で、一番の人口を誇る北区の玄関口である。現在は、

2030年に予定されている北海道新幹線の札幌延伸に伴い、駅周辺の再開発が進む。

人々が行き交い、区内には北海道大学などの教育機関もあることから、若者の活気にあふれている。観光に訪れた外国人の姿も見

られた。

「新鮮な海鮮料理はもちろん、スノーモービルやワカサギ釣りなども楽しめる札幌には、外国からも多くのお客さまが来られま

す」

教えてくれたのは、畑浩昭さん(副支部長)。区内のリゾートホテル「シャトレーゼ ガトーキングダムサッポロ」で、一昨年ま

でフロント統括マネジャーを務め、現在は嘱託として勤務する。

このホテルには、外国人客も多い。畑さんにとって、言葉の壁を感じることもしばしばだが、「語学以上にお客さまと向き合う自

身の振る舞いが大事だと感じます」。

韓国から訪れたある客は、畑さんの誠実な姿に触れて常連客に。以来、泊まるたびに畑さんに声をかけてくれるという。

「“ありがとう”の言葉が何よりも原動力になっています」と畑さん。今日も真剣な勤行・唱題から出発し、満々たる生命力で一人

一人を最大にもてなす。

北区を訪れたのは、年明け早々。札幌駅周辺に雪は積もっていなかったが、車で30分ほど走ると、そこは一面の銀世界。除雪車に

よって作られた雪の壁は背丈を超え、外に出ると刺すような寒さで、すぐに体の芯まで冷えた。

ふと道路を見ると、タイヤが雪に埋まり、立ち往生している車があった。

一人では抜け出せず、途方に暮れている様子。すると、周りの人たちが車から降り、駆け寄ってきた。

「兄ちゃん、大丈夫か?」

そして皆で白い息を吐きながら車を押し、助け出した。

やはり北国の暮らしは大変だ。そう思って、駆け寄った一人の壮年に声をかけると、意外な答えが返ってきた。

「もちろんつらいけれど、この大雪に鍛えられて、たくましくなるのよ!」

その頼もしさと、助け合う優しさに心が温まった。

 

何があっても負けない! 
北海天地の未来のために

 「私も車に乗りますが、この時期は、よく地域の方に助けてもらったり、逆に助けたりします。でも、そうした支え合いがある

から、地域の皆さんと仲が良くなるんです」と笑うのは、新琴似でカフェ「アトリエナータン」を営む上屋敷ひとみさん(女性部

員)。“生まれ育った地域の方々に、いつまでも健康で元気に過ごしてもらいたい”との思いから、おいしくて体に優しい料理を提

供する。

店を開いて6年。営業時間は昼から夕方までだが、仕込みはそれ以上の時間をかける。お薦めは「発酵旨み玄米プレート」。玄米は

炊き上げてから3日以上寝かせたもので、そうすると、もちもちの食感になるという。

このほか、提供する料理やスイーツには旬の食材を使い、添加物が入っていない自家製の調味料や菜種油などで調理する。

こだわりの料理は口コミで広がり、グルメ雑誌にも取り上げられた。

「健康に」という点では、本間悠太さん(区男子部書記長)は、太平という地域で整骨院を経営する。コロナ禍の中での開業だっ

たが、今では、なかなか予約が取れない人気店になった。

「全て学会での薫陶が生かされています」

本間さんは、男子部の先輩が関わり続けてくれたことがきっかけで、6年前から会合に参加。学会活動に励む中、常に周囲の人に寄

り添おうとする同志の姿に感動した。以来、仕事でも一人一人の体の痛みや悩みを聞き、真剣に施術。

「絶対に良くなりますから、一緒に頑張りましょう」と真心で接してきた。

男子部では昨年、札幌北総区のヤング男子部長に。「若いメンバーと励まし合いながら、地域広布の前進のために戦います!」と

力を込める。

札幌は、初代会長・牧口常三郎先生が青春時代を過ごした思い出の場所である。進学し、向学の炎を燃やした「北海道尋常師範学

校」は現在、北海道教育大学となり、区内のあいの里にある。

牧口先生は、北海道尋常師範学校の卒業を目前に控えた時、名を「長七」から「常三郎」に改め、その後、創価教育学会の礎を築

いていった。

「そうした“創価学会が生まれる源流”となった地域だからこそ、私たちの使命は大きいと思うんです」と言うのは、あいの里に住

む山下柳子さん(支部副女性部長)。これまで町内会の女性部長などを務め、今は民生委員を担う。

この人、とにかく謙虚だ。

地域のためにやっていることでも「ほかの方より時間があるからです」。コロナ禍となってからの3年間で御書の全編拝読は4回。

でも「頭が悪いので、繰り返し学んでいるだけです……」。

そうした言葉の奥に揺るぎない信念を感じる。昨年は、400人を超える友人と対話をしたという。

「牧口先生との縁深き地で、ただただ、広布のお役に立ちたいだけですよ」と瞳を輝かせていた。

北海道の豊かな大地を切り開く「開拓使」が設けられ、札幌において屯田兵による開拓が本格化したのは1875年(明治8年)。

北区でも新琴似などに屯田兵が入り、現在へと続く街づくりが進められていく。

そうした歴史があるからか、北区には、北海道の広布開拓においても重要な足跡が刻まれている。

戸田先生の指揮のもとで、実質的な北海道広布の開拓が始まった70年前の1953年(昭和28年)8月には、この地で座談会が開かれ

ている。さらに区内には、かつて学会の北海道本部があり、池田大作先生もたびたび訪れ、ここから北海道広布が大きく開かれて

いった。

「開拓の歴史が脈打つ地域だからでしょう。ここで生きる同志には、自分の使命の場所で友情を広げるという開拓精神が、ひとき

わ強い」と教えてくれたのは、祖父の代から北区に住む春原ゆう子さん(総区総合女性部長)である。

祖父が創業し、春原さんが役員を務める「アカツキ交通」は、市内のタクシー会社の中で“最も雪に強い”と評判。春原さんは保護

司会の副会長、更生保護女性会の常任理事、民生委員の幹事として、地域に大きく信頼を広げる。

「広布拡大こそ私の道」

こう断言するのは、区役所のそばでラーメン店を営む高橋行祐さん(副支部長)だ。共に店を支える妻・初枝さん(支部副女性部

長)と、毎年のように弘教を実らせてきた。

心構えを聞くと、初枝さんが「ビクビクしないこと。最高の仏法を実践しているんだから、自信を持って『信心をすれば幸せにな

る』と伝えればいい」と教えてくれた。

“あそこは学会。行けば勧誘される”──偏見から、客足が遠のいたこともあった。「それでも潰れなかった。やっぱり信心はすご

いね。貫くことが大事なんだ」と行祐さんが笑顔で。この夫妻の姿に開拓魂を見た。

北区の同志には、心に刻む池田先生との原点がある。

1976年(昭和51年)10月24日、現在の札幌北文化会館(旧・北海道本部)で行われた本部総会。この日は「札幌北総区の日」と

なった。

澤田喜八郎さん(総県副総合長)は、この会合に学生部の代表として参加した。

席上、先生は「不変の創価学会精神」として5項目の基本理念を発表。その一つ目として読み上げた「永遠に民衆の側に立つ」との

先生の力強い声が忘れられない。

「この時、生涯、先生と共に広布のロマンに生き抜こうと決めました」

そして、同じ大学で出会った妻・起代子さん(総区副女性部長)、娘たちと共に地域広布に駆けてきた。

夫妻と話すと、本当に仲の良い家族ということが分かる。こちらが話題を変えようにも、「いや、それがね」と、いつの間にか家

族との思い出話に戻る。 4人の娘に恵まれ、順風満帆の人生に思えた。しかし、試練が襲う。

2010年(平成22年)、次女・俊子さんが突発性の心筋症で霊山に旅立ったのだ。享年26。突然の別れを受け入れられず、涙が止

まらなかった。

真っ先に駆けつけてくれた同志は、子どもを亡くした経験を持つ婦人だった。

泣き崩れる起代子さん。その肩を抱き寄せ、共に泣いてくれた。ただただ、起代子さんの話に耳を傾け、共に題目を唱え続けてく

れた。

この婦人だけではない。次から次に同志が訪ね、言葉にならない家族の悲しみを受け止めてくれた。「あの時ほど、同志のありが

たさに胸が震えたことはありません」と起代子さんは振り返る。

前を向くには時間がかかったが、夫妻で祈り続ける中、心の底から実感したことがある。“娘は私たちの心の中に生きている”と。

喜八郎さんは語る。

「あの時、寄り添ってくれた同志のように、私たちも民衆の側に立つ生き方を貫いていきたい。それが池田先生との約束ですし、

娘に“あなたの分まで頑張っているよ”と言えるように前進したい」

その横で、起代子さんは、ほほ笑み、うなずいていた。

厳しい冬を越えるから、花々は美しく咲く。

人生も同じであろう。

いくつもの試練の冬を越えてきた北区の同志には、何があっても負けない、との信念の輝きがあった。過酷な自然と向き合う中

で、共に励まし、共々に前を向いて生きようとする絆の強さが光っていた。

池田先生は76年10月の本部総会の折、最後に強調した。

学会の運動は“人類史の未来開拓に貢献をしていかなければならない”と。

その尊き使命と誇りに燃えて、愛する天地で友情の種、信頼の種を蒔く同志たち。笑顔の花咲く歓喜の春を目指して、今日も地域

開拓の歩みを続けている。

 

 

 

 


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