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苦海の海に虹の華――生命輝く「水俣」の誇り 

連載「SOKAの現場」ルポ水俣に生きる㊦

2023年2月9日

 

苦海の彼方は虹の華── 生命輝く「水俣」の誇り

 

       笑顔の花が咲いた第50回「水俣友の集い」

            (先月21日、水俣文化会館で)

          ※撮影時のみマスクを外しました

 

創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」。

「水俣に生きる㊦」では、“新しい水俣”をつくるために奮闘してきた

3人の友を紹介する。㊤は4日付に掲載。

語り合える場

 ルポ上.で紹介した坂本直充さん(副本部長)が、かつて館長を務めた「水俣病資料館」を訪れた。

穏やかな水俣湾を望む小高い丘の上に立つ同資料館は、水俣の「教訓」を後世に伝えるために建設された。

徳冨晋一郎さん(地区部長)は市の若手職員だった頃、設立準備に携わった。展示する写真の検討に加わり、使用許諾を得るため

に、患者家族の元を回った。

患者の母からは、「親族会議を開かないと決められない」と言われた。「親戚の子どもたちの結婚や就職の妨げになるかもしれな

い」と。1990年当時、まだまだ偏見は根強かった。涙を流し、差別の実情を打ち明けてくれる患者もいた。

水俣で生まれ育った徳冨さんでも、初めて知る事実もあった。患者の苦悩に心が痛んだ。思い返したのは、それまで出会ってきた

学会員の患者たちの姿。

「座談会では患者の人たち、原因企業側や労組の人、私たち市役所の人間も一緒くたになって語り合っていました。そこには分断

がありませんでした」

徳冨さんは市役所の公害課(現・環境課)で患者認定の申請窓口も担当。その後、さまざまな部署を回り公務に従事した。しか

し、業務が多忙を極めた50歳の頃、うつ病を発症。闘病を経験し、「自身が苦しんで、少しは人の痛みが分かるようになった気が

します」。

97年からは、地域の「もやい直しセンター」の副館長を務めた。

人と人、自然と人との関係が傷ついてしまった水俣では、水俣病と正面から向き合い、人々が対話し協働する取り組みが「もやい

直し」と名付けられ、それを推進する拠点が整備された(芦北町にも同様の公共施設がある)。

徳冨さんがいたセンターは、水俣病発生初期の中心地であった袋・月浦地区につくられた。公募で選ばれた館長を支え、水俣病患

者をはじめ、障がい者や高齢者が利用できるデイサービスのような事業を始め、住民の交流を進めた。

「いろんな市民と共に、あらゆる差異や立場を超え、皆で語り合える居場所づくりに携われたことが、私の誇りです」

2017年に退職後も、「地域づくり」をライフワークに自治会活動に励む。「今、水俣の多くの学会員が地域社会の担い手になって

います」。多くの同志の胸にあるもの、それは、第1回「水俣友の集い」(1974年)での池田先生の指導だ。「皆さんが、水俣の

変革の原動力となって、年ごとに、郷土の蘇生の歴史を刻んでいっていただきたい」

 

研究を世界へ

 兵庫出身の多田雄哉さん(先駆長〈ブロック長〉)は、そんな学会の先輩たちに「水俣で生きる使命を教えてもらった」と語

る。

29歳で東京大学大学院の博士課程を修了。専門は海洋中の微生物とプランクトン。北海道大学や神奈川の海洋研究機関で働くも、

目覚ましい成果を出せず、職が定まらなかった。悩みを抱えつつ、唱題に挑戦する中で声がかかったのが、水俣の研究機関だっ

た。

2018年、水俣にやって来た多田さん。初日、車を借りて一人で街を回った。それまで暮らした都会と違う街の雰囲気。「静かとい

うか、寂しいというか」

「水俣」と聞くと負のイメージを持ってしまう人もいるだろう。多田さん自身も「公害の街」との先入観があった。しかし、実

際、住んでみると、「海がめっちゃきれいで、山も近く、温泉もある。何より人が優しい。田舎の街なんで刺激は少ないかもしれ

ませんが、私は学会員なんで……」。

引っ越したその日から男子部が訪ねてきた。「これ作ったから食べて」と折に触れ、女性部の人が差し入れを持ってきてくれる。

「公害の歴史や、今も苦しむ患者さんのことを忘れてはいけないと思います。その上で何が大切なのか。僕は創価学会の中で、水

俣でしか学べないものを教えてもらっています」と多田さん。

学会の会合に参加すると、胎児性水俣病患者の川上万里子さん(女性部員)の姿を、よく見かけた。屈託のない笑顔の川上さんの

周りには、いつも同志の輪が。そんなある日、川上さんは会館内で発作を起こし、その場にいた看護師の女性部員がすぐに手当て

を。

「患者の方々は、池田先生が語られた通り、“強く、強く、強く、生きて、生き抜いて”こられた。そして、周りの同志は同じ目線

でそれを支え、一緒に広宣流布を進めてきた。“創価学会ってすごい”と心の底から思い、自分の研究にも力が入りました」

多田さんの研究は、水銀が海中でメチル化(猛毒化)するメカニズムの解明。水俣に来てから始めた研究だが、水銀をメチル化す

る微生物が海洋深層に多く存在することを発見した。国際学会でも高く評価され、一昨年には研究所の主任研究員になった。

「なかなかポストが決まらず、落ち込んでいた時にも、壮年部の先輩に“今こそ題目ばい”って激励されて」。“水俣家族”に支えら

れながら、水俣から世界へ、研究成果を発信している。

 

土地が持つ力

 人間の生み出した化学物質によって、自然が破壊され、人の生命までも奪い取った水俣病。その経験を経て、水俣市は環境保全

やごみ分別収集の徹底など「環境モデル都市」づくりを進めてきた。

水俣の海から車で約30分、鹿児島との県境・石飛高原にある「天の製茶園」では1980年代から無農薬栽培に取り組んできた。

天野茂さん(副支部長)が緑茶から紅茶に切り替え、長男・浩さん(同)が水俣を代表するブランドへと発展させた。

製茶園で働く長女の山本美咲さん(地区女性部長)が茶畑を案内してくれた。「標高600メートルで寒暖の差が大きく、火山灰由

来の豊かな赤土が多様な茶葉を育ててくれます」

山に降った雨は川を流れ、海へ出る。「天の製茶園」は父・茂さんの代から水俣の漁師との交流があり、「山で暮らす私たちが海

に迷惑をかけちゃいけないと、自然と無農薬栽培に思い至った」。

5年前からは全ての畑で肥料を使わない「無施肥」栽培にも取り組んでいる。肥料を与えない分、茶葉の見栄えは良くないものの、

雑味がなく、お茶本来のおいしさがすーっと入ってくる。「本来の姿にこだわるから、土地そのものの良質さが生かされ、茶の木

もかえって強くなる。土地が持つ力を引き出す──水俣で信心を貫いてきた、天の製茶園のこだわりです」

山本さんは2007年、結婚を機に生まれ育った水俣を離れ、静岡、群馬で暮らした。「いつか水俣に帰りたいと、ずっと祈ってい

た」。20年、夫の転勤で帰郷する。

「やっぱり水俣が好き。小さな街のサイズ感も、ちょうどいい」。片側交互通行の山道で車待ちをしていると、見知らぬ人が手を

振り、あいさつしてくる。「海の人と山の人も近いし、街全体が家族みたいな感じなんです」

学会の同志のつながりは、「ある意味、家族以上。肥後もっこす(頑固)で気難しいところがある父や兄にも女性部の方は上手に

忠告し、うまく軌道修正してくれます(笑)」。

 ◇

 かつて、池田先生は水俣の友に句を贈り励ました。「水俣の 生命の花に 朝の露」「水銀の 苦海の彼方は 虹の華」

現在、水俣の海には豊かな海のバロメーターであるヒメタツ(タツノオトシゴの一種)が多数生息。地域の「もやい直し」も紆余

曲折を経て進み、日本有数の「環境モデル都市」になった。生きるとは何か。人間とは何か。生命を見つめ続けてきた水俣。今、

この地には自然本来の豊かさと、人間本来のぬくもりが息づいている。

 

 

 

 

 

 

 


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