〈人間主義の哲学の視座〉第14回
2023年2月6日
中国思想研究の大家であるドゥ・ウェイミン博士と
10年ぶりの再会(2005年4月、創価大学で)。
対談集『対話の文明』では、誠実で粘り強い対話を貫き、
新たな価値創造の道を模索していく先に、
「対話の文明」ひいては「平和の世紀」の創出が
あることなどが語り合われた
池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。前回に続き、「宗教と対話」をテーマに掲
げ、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士との対談集『対話の文明』の「第2章 文明の差異を超えて」をひもとく(前回は1
月19日付に掲載)
耳を傾けて聞く
この対談の大きな焦点の一つが、相手から「学ぶ文明」、互いに「学び合う文明」の重要性にある。
そのために欠かせないのが、自分と相手との差異の尊重、多様性の尊重といえよう。
では、どうすればそうした関係性を社会の基盤にできるのか。ドゥ博士は異文化間のコミュニケーションについて、自身の経験を
紹介している。
台湾の東海大学に在籍していた時代、アメリカの三つの大学4の大学院生たちが英語教師として赴任してきた。
彼らと毎日のように接するなかで、博士は「文化的な違いを超えて真に理解し合うためには、”耳を傾けて聞く”という優れた技術
が必要」だと感じたという。
池田 ”耳を傾ける”ことは、相手に心を開き、受け入れていく姿勢といえますね。それは、他者を敬い尊重することにも通じま
す。まさに、”耳を傾けて聞く”ことこそ、対話の第一歩といえるでしょう。
私が対談した、「平和研究の母」として著名なアメリカのエリース・ポールディング博士も、”聞くこと”こそ「平和の文化」を創
造しゆく第一歩であると語っています。
ドゥ 相手の立場に立って意見を聞くという姿勢は、人間同士の関係にあっても、また国と国との関係にあっても、重要な要素
となるものです。
◇
異なる他者を”敵”と見るのではなく、自己を拡大し、自己をより良く理解するのに役立ってくれる存在としてとらえていくべき
なのです。すなわち、他者は自己の鏡であると考えるのです。
池田 さまざまな他者と接することで、新しい光を受けて自分自身を見つめ直すことができる。いつも一つの同じ光だけを手が
かりに進むのでは、独善という落とし穴に足をすくわれてしまいかねない。思うに「対話」とは、互いに異なる光を当て合うなか
で、それぞれの生き方や進むべき道を、より豊かに、より鮮やかに、より広々と照らし出していく、創造的精神の営為といえまし
ょう。
相手の話に耳を傾ける対話の姿勢が失われた時、ソクラテスが「言論嫌い」が「人間嫌い」に通ずると説いたごとく、個人も集
団も自己の殻に閉じこもり、他者を拒絶する独善に陥ってしまう。
互いに学び合う対話の価値は、自分の「正しさ」を一方的に主張しがちなSNS(*注1)時代の今、ますます重要性を帯びてい
る。
価値創造の源泉に
インターネットの普及とSNSの拡大で私たちの情報環境は大きく変わった。世界の人々と瞬時につながることができ、行政機
関の重要な発信も手軽に触れられるようになった。日本でのSNS普及率は8割を超え、さらに上昇を続けているという。
アメリカでSNSを使った、ある調査が行われた。利用者自身の考えと対立する意見に触れさせると、どのような反応を示すかを
調べたのだ。
結果は、多様な意見を受け入れるどころか、むしろ自らの意見が正当だという確信を強めてしまったという(クリス・ベイル著
『ソーシャルメディア・プリズム』松井信彦訳、みすず書房)。
SNSの登場で多様な意見が発信され、民主主義が強まり、文化の多様性が豊かになるという21世紀の夢は悪夢に終わってしまう
のだろうか。いつの間にかSNS上の言論は左右両極端な意見に集約され、対立を生んで平和を遠ざけ、民主主義を危機に陥れて
いる。
多様な意見が対立したままの社会では、それぞれの“正義”がぶつかり合う。かつて世界を席巻した植民地主義や文化帝国主義は、
自文化を絶対化し、画一的に他の民族や地域へ押し付けた。
国と国が衝突し、多大な犠牲を払ったことへの反省から、“互いの文化を対等に扱う”という「文化相対主義」(※注2)や「寛容」
の概念が注目を浴びた。
対談では、この概念の脆弱さを指摘する。
池田 しかし、単に他の人々の存在を認めるといった、認識論的な「消極的寛容」(※注3)では、いざ対立が生じた時には、い
とも簡単に吹き飛んでしまう脆弱さがあるといわざるをえません。
そうではなく、他者の存在を尊び、積極的に関わって、学んでいく。むしろ、互いの差異を価値創造の源泉としながら、ともに、
より豊かな人間性の開花を目指していく。そういう生き方こそが求められているのではないでしょうか。
ドゥ 同感です。差異へのこだわりを乗り越えることは大切ですが、そのために私たちが早まって、さまざまな差異を台無しに
してしまうのは、決して望ましいことではありません。社会の幸福と平和という共通の目的に向かって、慎重に注意深く進むこと
が重要だと思います。
多様性輝く世界観
ドゥ博士は、他文明を「“認める”だけでは、『否定はしないが、無視もする』という心根を脱却できない」とも。差異をたた
え、差異から学び合う対話こそ、分断の危機を乗り越える方途といえよう。
差異の尊重は個性の尊重。それは多様性が輝く世界──池田先生は仏法の世界観を紹介した。
池田 仏法では、「桜梅桃李」という原理が説かれています。すべてが桜に、あるいはすべてが梅になる必要はない。また、な
れるはずもない。桜は桜、梅は梅として、それぞれが個性豊かに輝いていけばよく、それが最も正しい生き方である、と。もとよ
り「桜梅桃李」は一つの譬喩であり、それが人間であれ、社会であれ、多様性の尊重という点では同じです。
さらに、仏法では、「自体顕照」といって、それぞれが自身の本然の個性を内から発揮しゆくことが重んじられます。それぞれの
個性の開花があってこそ、さまざまな花が咲き薫る花園のような調和を織り成していくことができる。その多様性が輝く豊饒な世
界観を、仏法は説き示しているのです。
ドゥ とてもわかりやすい譬えですね。お話を伺って、よく似た譬喩を思い出しました。
それは、あらゆる川が流れ込むことによって、湖をつねに豊かに保ち続けるという譬えです。さまざまな起源をもつ川がつねに新
しい水を注ぎ込むことによって、湖はいつまでも新鮮な状態を保つことができるのです。
差異を強調して自己の正当性を確保するのか、それとも、まず相手の言葉に耳を傾け、多様性を尊重しつつ、人間として共通の
地平を見いだしていくのか。人類は岐路に立っている。二人は「今こそ対話を」と結論する。
ドゥ 差異をマイナスではなく、プラスの価値に転換していくことが大切です。ゆえに、対話は、他者の考えを変えさせるため
に説得したり、自分の立場を一方的に主張したりするだけの行為であってはなりません。対話とは、他者に耳を傾け、それによっ
て自分自身を拡大し、自己認識、自己理解、自己批判を深めていける、大いなるチャンスなのです。
池田 その通りです。対話がなければ独善になってしまう。相反し、異なるものをも包み込んでいくところに、対話の深い意義
があると、私は思っています。
異なる価値観を尊重し合いながら、真の対話を通じて、いかに人類の共通の大地を広げていくか。対話の力で、どう世界を結び、
人類を高めていくか。それが大事です。
憎悪や利害や対立などが幾重にも絡み合った、複雑きわまりない現実の世界をみるとき、それは迂遠な方法に映るかもしれませ
ん。しかし、いかに現実が困難であろうとも、私たちは、時代の底流を見据え、変革への挑戦を決して手放してはならない。二十
一世紀の地球に「対話の文明」を開花させていくことこそ、世界平和への壮大にして着実なる挑戦であると、私は信ずる一人で
す。
〈注1〉SNS ソーシャル・ネットワーキング・サービスの略称。代表的なものにツイッター、フェイスブック、インスタグラ
ム、LINE(ライン)など。
〈注2〉文化相対主義 自分の文化が最高だと考える「自民族中心主義」を乗り越えようとして生まれた概念。自分の文化を中心
に優劣をつけるのではなく、相対的に多様性を認めることが必要と主張する。
〈注3〉消極的寛容 互いの差異に優劣をつけず、多様性を認める姿勢から生まれる弊害。単に全てを認めるという姿勢では積極
的な理解が進まず、表面的な交流に終わってしまうということ。