〈危機の時代を生きる〉
2021年11月7日
感染症のパンデミック(世界的大流行)という未曽有の事態と向き合う今、長い時間軸で物事を
見つめる歴史の視点から、多くの教訓が得られるのではないか。歴史学者の磯田道史・国際日本文
化研究センター教授にインタビューをした。
国民の安全保障
――磯田教授はこれまで日本における自然災害の歴史を詳細に研究され、昨年来、感染症につい
ても多角的な発信をされています。「災害多発時代」ともいうべき今日の日本社会をどう見ている
でしょうか。
人間が地球環境に過度な影響を及ぼすようになった今日、頻発し、激甚化する自然災害に対して、私たちの弱さが露呈しているといえ
ます。その意味で、人類は災害との向き合い方を見つめ直す必要があるでしょう。
特に、自然災害が昔から周期的に発生してきた日本においては「災後」というものはなく、私たちは常に「災間」(災害と災害の間)を
生きている、という認識が適切だと考えます。
感染症についても同様です。環境破壊が進み、大量かつ短時間での人の移動が可能になった現代は、新しい感染症がいつ現れてもおかし
くない。私たちは「疫間」を生きているのです。
「後=アフター」ではなく「間=ビトウィーン」、つまり「次の災害は来る」という視点に立つ時、必然的に「準備」という考え方が生
じます。災害の場合、人類の力でなくすことはできませんが、備えることで「減災」は可能です。
一方、戦争や紛争は、災害とは違い、人間の意思で起こるため、私たちの努力でなくすことができる。そのために、軍縮や予防外交とい
った備えに尽力する姿勢が、人間の本筋の生き方といえるでしょう。
「戦争は周期的に発生する」=「戦間」という発想に陥らないように慎み、「戦争を二度と起こさない」=「戦後」にしてみせるという
希望を持ち続ける社会に転換できるかどうか。21世紀を生きる私たちの課題といえます。
いずれにしても「間」という視点を常に意識して、未来に向けて「準備」をする。そう考えると、コロナ禍を機に、例えば「国防」の考
え方なども変わるのではないかと思います。
従来、国防とは、領土・国境、国の中枢を防衛する「国家の安全保障」が中心となってきましたが、それだけでは、災害や感染症に対峙
することは難しい。私たちは、新型コロナの流行初期のマスク不足や、現在のワクチン接種などのように、国民の命や生活を守るために
何が必要かを痛感したと思います。国民個人の人命を守る「国民の安全保障」が、これからの国防思想上の重要なポイントとなるでしょ
う。
――磯田教授は近著『感染症の日本史』等でも、歴史から今を生きる知恵を学ぶことの重要性を訴えられています。
災害や疫病は、個人の記憶の範囲を超えた周期で経験する場合が多いため、個々人の心の持ち様も含めて、その準備が簡単ではないと
いう側面があります。今回のコロナ禍も、ほとんどの人にとって“未知の事態”だったため、さまざまな混乱が生じました。
正確な情報がゼロに等しい状況下で、対処法を選択するためには、過去の事例から類推するしかない。その時、長い時間軸をもって物事
を捉える歴史学の視点が役に立つわけです。
今回のコロナ禍を考える上でも、20世紀前半に発生したスペイン風邪の事例が“参考例”となりました。
私の学問の師匠であり、社会経済史の第一人者であった速水融先生は、晩年、先行研究がほとんどされていなかったスペイン風邪の調査
を行い、『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』を著しました。
それによると、1918年から20年にかけて流行したスペイン風邪は、世界で約4000万人以上もの命を奪ったとされます。日本では、3、4
回の感染の波があり、約45万人が亡くなりました。
スペイン風邪の時と現在の感染防止策を比較してみると、手洗いを除き、うがいの励行やマスク着用など多くの共通項を見いだせます。
今、多くの国が外出禁止や都市封鎖を強制的に実施する中、日本は“要請と自粛”のみで感染拡大を防いでいますが、この傾向も、スペイ
ン風邪の頃と変わっていません。
その背景として、日本特有の「ゾーニング(区分け)文化」が挙げられます。多くの日本人は、靴は玄関で脱ぎ、コートは入り口近くに
掛けておくなど、「内と外」を峻別して生活する習慣があります。こうした個人レベルにおける清潔意識の高さが、感染を抑制している
面があるでしょう。
一方で、その意識の高さが、感染者や医療従事者への差別として働く場合もあります。スペイン風邪の頃から続く課題です。
「感染=悪」とする異様な雰囲気が強まれば、感染の隠蔽を促し、さらなる感染を助長する恐れもあります。まさに「百害あって一利な
し」です。
また、世界中で猛威を振るったスペイン風邪ですが、不思議なことに、日本ではその後、人々に忘れ去られてしまいます。
スペイン風邪によって、日本の風景はさほど変わりませんでしたが、収束後の1923年に発生した関東大震災、さらにその後の第2次世界
大戦によって、日本の風景は一変しました。そのインパクトがあまりに大きく、スペイン風邪は人々の記憶から消え去ってしまったので
す。
ゆえに、残念ながら、日本は感染症の教訓を十分に学ぶことができませんでした。そのこと自体が、一つの教訓といえます。
磯田教授の著書
――現在、私たちが体験している感染症の教訓を、後世へ伝え残す
ためにも、歴史学の果たす役割は大きいように感じます。
私は、歴史学者として、「誰から見た歴史なのか」を大切にしてき
ました。
一般に「歴史」と聞くと、政治史や外交史といった、為政者や権力者の歴史を連想しがちですが、私は、それらの記録から抜け落ちてき
た「庶民」に光を当ててきました。
“歴史は細部に宿る”といわれますが、当時の一庶民が何を考え、どのような生活を送っていたかを探究する中で、その時代の普遍的な本
質を見いだせる場合があるからです。
感染症の場合、単に医療だけの問題ではなく、当時の人々の感情や社会状況も関連します。そのため、感染症の教訓を学ぶには、医療史
や疾病史に加えて、患者側から見た「患者史」が重要であると考えます。
コロナ禍になって以降、毎日、感染者数・死亡者数が報道されています。私たちは、どうしても数値ばかりに目がいきがちですが、その
数字一つ一つには、多様なストーリーが含まれています。いつ・どこで感染したか、どのくらい症状が続いたか、どのような予防対策を
行ったのか──そうした経験の蓄積には、後世に生かせる具体的な教訓が詰まっているのです。
最近になって、スペイン風邪の渦中を過ごした京都の女学生の日記が発見されました。そこには、感染症に対する不安や恐怖、身近な親
族を亡くした悲しみなどが率直につづられています。パンデミックの実像を知る上で貴重な史料といえます。
また、志賀直哉の小説「流行感冒」は、スペイン風邪にかかった自身の体験をもとに書かれています。作品中、志賀自身をモチーフにし
たとされる主人公は、こっそりと芝居を見にいったお手伝いさんに対して“自粛警察”のような行動を取ってしまいます。その後、自らが
スペイン風邪にかかり、以前の言動を反省し、物語は終わります。危機的状況であっても他者への配慮を失ってはいけないという思いが
伝わってきます。
このような個別具体的な「ミクロヒストリー」と、統計データなどから導き出される「マクロヒストリー」を組み合わせることで、感染
症という事象を立体的に描き出すことができ、教訓として継承されていくのだと思います。
特にSNSが普及した現代にあっては、個人の記録がアーカイブされやすい。誰もが感染症の脅威に立ち向かっているという意味では、私
たち一人一人が患者史の“担い手”になり得るわけです。言い換えれば、コロナ禍の中での私たちの経験を生かしていくことが、そのまま
未来の安全につながるということになります。
パンデミックという人類史に残る期間をリアルタイムで経験しているからこそ、そうした一日一日を大切に生きていきたいと思います。
せめぎ合いの時代
──感染症の流行を経験した社会は、今後、どのような変化を迎えるのでしょうか。
歴史をひもとくと、パンデミックの後の社会は、良い方向にも悪い方向にも振れる可能性があります。
14世紀にまん延したペスト(黒死病)の後、ヨーロッパでルネサンスが興隆したという例もありますが、それだけで「感染症の後には、
社会は良い方向に転換する」と簡単に結論づけるのは難しい。歴史は、さまざまな要素が複雑に絡み合って形成されており、些細な出来
事であっても、事態が大きく変わってしまう場合があるからです。
その象徴的な例が、スペイン風邪の世界的な大流行によって、終結が早まったとされる第1次世界大戦とその後の状況です。
講和会議の場で、戦勝国のイギリスやフランスは、自国の経済再建のため、敗戦国ドイツに対して莫大な賠償金を要求しました。対し
て、アメリカのウィルソン大統領は、世界平和のために敗戦国に過酷な賠償責任を課すべきではないと考えていました。
そんな中、ウィルソンがスペイン風邪に倒れてしまい、会議に参加できなくなります。この間、議論は大きく進んでしまい、結果的に、
ドイツは多大な賠償金を負担することになりました。やがて経済危機に陥ったドイツでは、ヒトラー率いるナチスが勢力を伸ばし、ファ
シズム体制を樹立。他国への侵略を契機に、第2次世界大戦が勃発するわけです。
このように、パンデミック後の社会は、多くの死を経験していることもあり、人心が荒廃し、極端な方向に走りやすい。これからの世界
は「危ない橋」を渡るような不確実性の高い状況、すなわち、良い方向にも悪い方向にも変わり得る「せめぎ合いの時代」が続くと予想
されます。その意味でも、これからの10年は、人類の意志と行動が試される「勝負の10年」といっても過言ではありません。
──社会や国家が極端な方向に走らず、コロナ禍を乗り越えるためには、何が必要でしょうか。
今回のコロナ禍で、今日のグローバル社会には「他人事」が存在しないということが分かったと思います。感染症の場合、一部の地域
に、医療の空白が生じれば、その分、抑制が難航します。世界各国が、自国優先主義だけに傾かず、コロナ禍という共通の課題に対して
連帯できるかどうかが、パンデミックを克服する上での鍵になります。
それと人間は価値観が揺らぐと、どうしても極端な考えに傾く。集団の運用や指導も荒くなり、丁寧な説明や対話を省いて、物事を強引
に進めようとします。そこに陥らず、バランスを保って進むためには、平和と人権に対する「尊敬心」と、他者を思いやる「共感性」が
社会の根底にあることが求められます。
共感といっても、自分に近いものだけが愛しいというのであれば、どんどん利己的になり、社会は弱肉強食に傾いてしまいます。ここで
いう共感とは、遠くにいる他者であっても思いをはせる想像力、仏教でいうところの「慈悲」、儒教の「仁愛」の思想に近いでしょう
か。
とはいえ、現代の私たちが互いに共感性を示し合うことは簡単ではないかもしれない。
だからこそ、「こんなことをしたら、あの人がかわいそう」という相手の側に立つ思いを持つことを互いに目指したい。そして、人間に
とって快適な幸せは、どのような条件で成り立つのかという視点で、現実的・合理的な対処を粘り強く続ける。このバランスが大切では
ないでしょうか。
戦後史を概観すると、課題は山積するものの、戦争自体は徐々に減ってきました。人類はぶれながらも、世界平和を目指して漸進してき
たとも捉えられます。全面的に安心することはできませんが、私は、人類の賢明な選択を信じたいと思います。
いそだ・みちふみ 1970年、岡山県生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。茨城大学准教授、静岡文化芸術大学教授などを経て、2016年から国際日 本文化研究センターへ。本年4月から同教授。著書に『武士の家計簿』、『天災から日本史を読みなおす』、『災害と生きる日本人』(中西進氏と共著)、『感染症の 日本史』など多数。