〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉
2021年11月5日
11・28「魂の独立」直前――。
池田先生は品川・目黒合同の創価ルネサンス文化音楽祭で
学会歌の指揮を執った
(1991年11月23日、東京・大田池田文化会館で)。
学会は宗門からの弾圧など意にも介さず、世界広布へと雄飛。
現在、創価のスクラムは192カ国・地域に広がっている
連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を紹介します。今回は、11・28「魂の独立」30
周年を記念して、先生のスピーチから世界宗教の要諦について学びます(全2回)。
「第2次宗門事件」とは
1990年(平成2年)12月末、創価学会の大発展と池田先生の平和行動に嫉妬した日顕ら宗門は、先生の法華講総講頭職(信徒の代表)
を一方的に罷免。創価の師弟を分断し、“衣の権威”に従わせようとする「C作戦」(創価学会分離作戦)を実行に移した。
学会は、あくまでも対話での解決を求めたが、宗門は頑なに話し合いを拒否し続け、翌91年には学会による登山会の中止、檀徒作りの強
行など、謀略の限りを尽くして学会を圧迫してきた。しかし、「法主信仰」の邪義を唱えるなど、腐敗・堕落した宗門の正体を見抜いた
学会員は微動だにしなかった。同志は御書に照らして、宗門の陰謀は、三類の強敵の出現であると捉え、池田先生と共に、破邪顕正の前
進を開始する。
当初の目論見がことごとく破綻した宗門は、91年11月28日、学会に「破門通告書」なる文書を送付。さらに、学会員への御本尊の下付
を停止した。11月28日は学会にとって、邪宗教と化した宗門からの「魂の独立記念日」となった。学会は宗門の閉鎖的な権威主義の呪縛
から解き放たれ、世界宗教へと大きく飛翔していく。
大聖人のあたたかき人間性
〈1990年(平成2年)12月16日、宗門は学会に対して、ベートーベンの「歓喜の歌」をドイツ語で歌うことは「外道礼讃」であるな
どと難詰してきた。それは、現実社会へ仏法を展開する創価の文化運動への、時代錯誤の言い掛かりであった。12月24日、池田先生は江
東、墨田、杉並3区合同記念幹部会で語った〉
世界の民衆に妙法を弘め、絶対の幸福への道を開いていくことが広宣流布である。大聖人の御遺命であられる。ゆえに、世界各国の人々
が何を求めているのか、それにどう応えていくかが大事となる。これを忘れて、仏教についての知識のない人、あるいはそういう国に、
いきなり仏法の言葉で一方的に語っても、人々の理解と納得は得られない。
ひいては、いたずらに反発を招き、大聖人のお心に反することになりかねない。
その意味で、私どもが世界に展開してきた広宣流布の行動、仏法を基調とした平和、文化、教育の推進こそが正しき道であると確信して
いる。
一次元から見れば、大聖人の仏法は、日本において、あまりにも教条主義的にとらえられてきた。また国粋主義にも利用されてきた。
そうしたこともあって、世間では大聖人の真実のお姿と、大聖人の仏法のもつ豊かなヒューマニズムに、十分に目がそそがれなかった。
日蓮大聖人というと、なんとなく“怖い”“近寄りがたい”というイメージすら作られてきたのが現実である。
(中略)
私がスピーチの中で、大聖人の御書を拝して心がけてきた一つも、大聖人が、どれほど民衆の一人一人を大事にされていたか、どれほど
濃やかに激励され、優しく包容されていたかを示すことにあった。
つまり、日蓮大聖人の仏法の深くあたたかき人間性を拝することである。
たとえば、“どんなことでも困ったことがあったら、私のもと(身延)へおいでなさい。お会いしますよ。この山で、一緒に、飢え死にし
ましょうよ”(御書1222ページ、通解)とまで仰せになり、門下を励まされた御文も拝読した。
私どもは、こうした大聖人の深き御慈愛、御精神を拝しつつ、さらに折伏・弘法に進んでまいりたい。要は、どこまで深く社会の人々の
心をとらえ、共感と納得を与えて、正法へと向かわせていくかである。ただ勇ましく「折伏、折伏」と繰り返しても、皆が寄りつかなく
なったのでは何にもならない。
我らの“内”に御本尊がある
〈「C作戦」を実行に移した宗門は、1991年(平成3年)7月、それまでの学会の登山会を一方的に取り止め、宗門の許可なしに参詣で
きない「添書登山」を開始。“登山しないと罪障消滅できない”などの邪義を唱え、信徒を脅かす。池田先生は9月3日、学生部・教育部合
同総会で「日女御前御返事」の一節を拝し、日蓮仏法の本義を訴えた〉
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識
心王真如の都とは申すなり」(御書1244ページ)
──この御本尊は、まったくよそに求めてはならない。ただ、われら衆生が法華経を受持し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団におい
でになるのである。これを「九識心王真如の都」(仏界の尊極の生命)というのである──。
大聖人の仏法は、御本尊を信ずる「人間」を、一切の差別なく、最極の尊体とみる。全人類に平等の「世界宗教」たるゆえんがここにあ
る。そして、この御本尊は、信仰者の“内”にあると示され、「全く余所に求る事なかれ」と仰せである。当然、“どこか”に行かなければ
成仏しないというのは、大聖人のお教えではない。
御本尊を拝する“その人”が“その場で”仏となる。今、自分のいる場所で、自分を最高に輝かせながら、家庭のために、社会のために、そ
して人類のために、活躍していけるのが「妙法」である。(中略)
流罪の地・佐渡でおしたための「生死一大事血脈抄」には、次のように仰せである。
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うな
り、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(同1337ページ)
──(十界の諸法がことごとく生死の二法であり、妙法の当体であるから)五百塵点劫という久遠の昔に成道した釈尊(再往は日蓮大聖
人)と、すべての衆生を成仏させる法華経(再往は御本尊)と、われら衆生との三つは、まったく差別がないと信解して妙法蓮華経と唱
えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。このことは、日蓮の弟子檀那等の肝要である。法華経を持つとは、このことを
言うのである──と。
「全く差別無し」──。大聖人は、仏と衆生との「絶対の平等」をお示しくださっている。このことを信解して妙法を唱えるのが「弟子
檀那等の肝要」であり、「法華経を持つ」ことであり、「生死一大事の血脈」もここにある、と。
その他の仰せからも、一切衆生の「平等」が徹底して説かれていることこそ、法華経の教えの「肝要」なのである。
仏法は「民主の時代」の基盤
〈対話による解決を求める学会に対して、宗門は一方的な処分を繰り返す。その背景には「僧侶が上。信徒が下」といった、宗門の差
別的な体質があった。1991年(平成3年)9月23日、池田先生は第1回日米交流研修会で、「民主の時代」について言及する〉
仏法は、一切衆生に本来具わっている仏性を開かしめ、自覚させ、成仏させることが目的である。なかんずく法華経は、救うべき衆生
に、何の差別も設けないのである。「平等」を否定するのは、「法華経の否定」である。(中略)
今や世界的な潮流となっている「民主の時代」「民衆の時代」。この人類史的転換を、混乱と反動によって逆流させ、不幸な結果に終わ
らせてはならない。そのために、「民主の時代」の基盤となりうる、普遍的な「人間学」「宗教性」「精神性」の必要が、多くの識者の
間に認識され始めている。
いよいよ、日蓮大聖人の仏法が、世界の民衆から求められ、その偉大さが実証される時が来た。時代が仏法に近づいているのである。
本格的な世界広宣流布の時が来たことを確信していただきたい。
こうした時代にあって、民衆を抑圧し、権威への無条件の従属を強制するような宗教や宗教者は、もはや時代錯誤の遺物として自滅して
いくであろう。
まして大聖人の門下と名乗りながら、そのような姿があれば、それこそ大聖人の「慈悲」と「平等」の御精神に背き、反逆する大罪であ
る。(中略)
どこまでも民衆を“権威”に従わせようとする独善的な宗教は、あくまで人々に盲従を強要し、人間を束縛し、支配しようとする。
“人間”に奉仕し、人々を幸福にするためにこそ、本来、宗教はある。まして、大聖人の仏法は、どんな権威、権力にも屈することなく、
世界の人々に平等に「自由」と「尊厳」をもたらす、最高の人間主義の大法である。
仏子を見くだし、「差別」を設けるような姿があれば、もはや大聖人の門下とはいえないであろう。
創価学会の歴史は、(中略)人間の成長を阻害する権威主義との戦いの連続であり、真の民主主義を促進する運動を、全世界に展開して
きたのである。
だからこそ、非難中傷を浴び、迫害また迫害の連続だったともいえる。ゆえに、私どもは、広布と信心を破壊する天魔の所業は鋭く見破
り、正法を守り、信心を守り、仏子を守り、民主主義を守るために、悪とは一歩も退かずに戦っていかねばならない。