2021年10月27日
徳島講堂の落成記念勤行会に出席。
“徳島ここにありとの気概を
示しきっていただきたい”と訴えた
(1981年11月9日)
広宣流布の歴史は、単なる過去の出来事ではない。そこに刻まれた
精神を胸に、誓い新たに挑戦を開始する“魂の原点”である。ここでは
「輝きの瞬間」と題して、11月の広布史を紹介する。
被爆30年の広島を訪問し、
平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に
献花する池田先生
(1975年11月8日)
1975年11月8日 広島の原爆慰霊碑に献花
広島の平和記念公園に、池田先生の題目三唱の声が響いた。
1975年11月8日、先生は原爆死没者慰霊碑の前に立った。被爆2世の青
年と共に慰霊碑に献花し、平和への祈りをささげた。先生は語った。
「私は、平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです」
――「原水爆禁止宣言」の発表から2カ月後の57年11月20日、戸田先生は被爆地・広島へ出発する予定であった。だが、体の衰弱は激し
く、前日の19日、池田先生は広島行きの中止を懇願した。
「ご無理をなされば、お体にさわり、命にもかかわります。おやめください」
戸田先生は語った。
「そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ」
しかし、出発の日の朝、戸田先生は自宅で倒れてしまう。やむなく、広島には代理の幹部が向かうことになった。命を賭しても、広島を
訪れようとした恩師の気迫を、池田先生は平和行動の原点として、深く心にとどめた。
先生が慰霊碑に献花した75年当時、世界は東西冷戦、中ソ対立の渦中にあった。一触即発の状況下、先生は74年から75年にかけて中
国、ソ連、アメリカを相次いで訪問。ソ連のコスイギン首相、中国の周恩来総理、アメリカのキッシンジャー国務長官など、各国の要人
と語り合い、「分断の溝」に「友好の橋」を架けていった。この「平和への闘争」をもって、広島を訪問したのである。
先生は献花の準備に当たった青年たちと握手を交わし、こう語った。
「人生は早いよ。だから私は、一瞬一瞬が真剣勝負だという思いで戦っているんです」
1979年11月16日 東京戸田記念講堂での指揮
1979年11月16日、創価学会創立49周年を記念する本部幹部会が、東京戸田記念講堂で行われた。
池田先生は幹部会で、「威風堂々の歌」の指揮を執った。第3代会長辞任後、初めての学会歌の指揮だった。
宗門僧らの師弟分断の画策によって、先生は会合で話すことができず、聖教新聞でも動向が報じられることが、ほとんどなくなった。
だが、どれだけ行動を制約されようとも、先生の広宣流布の戦いがやむことは決してなかった。
個人指導に力を注いだ。揮毫を認め、和歌を詠み、ピアノを弾いて、同志を鼓舞した。幹部会での指揮も、“励ましの戦い”であった。
会場の「東京戸田記念講堂」。その名を提案したのは、池田先生である。講堂が立つ豊島区には、初代会長・牧口先生、第2代会長・戸
田先生が戦時中、軍部政府の弾圧によって投獄された東京拘置所があった。牧口先生は獄中で殉教の生涯を閉じた。講堂は先師、恩師の
死身弘法の精神をとどめる法城として誕生した。
79年6月3日、講堂が開館。その前日、池田先生が初めて訪問した。この6月からの半年間で、先生は18回訪れ、全国各地から来館する同
志に渾身の励ましを送った。会長辞任後、東京・立川文化会館、神奈川文化会館などと共に、“戸田講”から新たな歴史を開く戦いを起こ
した。
先生は幹部会で、扇を手に壇上の中央へ。「威風堂々の歌」の曲が流れ始める。会場には“誓いの手拍子”が響いた。
先生の入魂の舞は、皆に呼び掛けていた。
――大東京よ、立ち上がれ! 全同志よ、立ち上がれ!
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、この日、東京から凱歌の行進が始まったのである。
2001年11月12日 関西総会・北海道栄光総会
21世紀が開幕して、最初の創価学会創立記念日を祝賀する本部幹部会は、「関西総会」「北海道栄光総会」の意義を込めて開催され
た。
2001年は関西の友にとって、「大阪の戦い」から45周年の節目。また、1981年11月、反転攻勢の激励行の中、先生が関西で「嗚呼黎明
は近づけり」の指揮を執ってから20周年であった。
さらに、前年の2000年12月に関西で行われた本部幹部会で、先生は「第2の七つの鐘」の構想に言及。広布の遠大な未来を展望した。
この「第2の七つの鐘」を打ち鳴らす21世紀の初陣を圧倒的な広布拡大で飾ろうと、2001年の上半期、関西の友は対話に奔走。全てに勝
利して、関西総会に晴れ晴れと集った。
北海道の友にとって2001年は、池田先生が1991年に「難攻不落の三代城」との指針を示してから10周年の佳節を迎える年であった。
初代会長・牧口先生、第2代会長・戸田先生が青春時代を過ごした北海道。小樽問答や夕張炭労事件など、池田先生が青年時代、三類の
強敵と戦い、勝利した北海道。創価三代の有縁の天地である誇りを胸に、友は祈りに祈り、広大な北の大地を動きに動いた。
2001年の上半期を北海道の友も、壁を破る対話拡大で荘厳。さらに、下半期は聖教拡大に挑み、連続勝利で栄光総会に臨んだのである。
関西総会・北海道栄光総会で、先生は強調した。
「環境ではない。一念で決まる」「『人生、何があろうと“信心”で進め!』――これが仏法者の魂である」
師の渾身の叫びから20星霜――。学会創立100周年を目指す今、その初陣を総仕上げする“凱歌の秋”を痛快な勝利で飾ろうと、関西と
北海道の友は使命の天地を駆け巡っている。
1981年11月 四国から始まった反転攻勢
池田先生と四国の友の絆は永遠――40年前の1981年11月9日から始まった四国での激励行は、その象徴である。
この日、徳島講堂の落成記念勤行会が昼と夜の2回、開催された。夜の勤行会で先生は、“どんなことがあっても、今日は一目でも一足で
も、徳島に入って約束を果たしたかった”と語った。
2カ月前の聖教新聞には、落成を祝う記念行事に先生が出席する、との予告記事まで掲載になっていた。
前年の80年、宗門僧らが学会批判を繰り返す中、四国の同志は大型客船「さんふらわあ7」号に乗り、3回にわたって神奈川文化会館にい
る先生のもとへ集った。四国の友の求道心に恩返しがしたい――それが、先生の四国訪問への並々ならぬ思いとなった。
81年10月、四国青年部が企画・推進し、四国研修道場で池田先生の平和行動展が開幕した。1カ月の開催期間で、来館者は6万人を超え
た。四国の友は、創価の正義を語り抜いて、師を迎えたのである。
先生は徳島、香川、愛媛、高知それぞれの集いに全て出席した。同年11月10日、四国研修道場で行われた香川の記念幹部会で、烈々と宣
言した。
「もう一度、指揮を執らせていただきます!」
「私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
14日には、先生が二十数回の推敲を重ね、学会歌「紅の歌」が誕生した。
15日までの7日間に及ぶ先生の激励行は、「反転攻勢」として広布史に刻まれる。それは、宗門の謀略の鉄鎖を断ち切り、学会が大きく
飛翔する転機となった。
80年から81年にかけての、池田先生と四国の同志のドラマは、いついかなる時も、どの地にも先駆けて広布の突破口を開くという、四国
の深き使命を物語っている。