〈君も立て 若き日の挑戦に学ぶ〉第9回
2021年9月24日
「晋作の如く戦うか」
「大阪の戦い」を勝ち抜いた翌月の1956年(昭和31年)8月、全国の新支部結成大会が開催された。
この月、学会の支部数は、それまでの16支部から倍増。池田大作先生が陣頭指揮を執った「札幌・夏の陣」や「大阪の戦い」を経て、第
2代会長・戸田城聖先生の生涯の願業である75万世帯の達成へ、大きな飛躍を遂げたのである。
9月5日、戸田先生と池田先生は、学会本部の会長室で、日本地図を広げながら、広布の展望を語り合った。地図には各県ごとの会員世帯
数が書かれていた。地域によって大きなバラツキがあった。東京は10万、関西は6万を超えていたのに対して、山口県は430世帯。戸田
先生は中国広布の未来を案じた。そして、愛弟子にこう言明した。
「ひとつ山口県で、指導・折伏の旋風を起こしてみないか」
池田先生は、間髪を入れず答えた。
「はい、やらせていただきます」
この年は、明治維新の先覚者・吉田松陰が松下村塾で講義を始めた年から、ちょうど100周年に当たっていた。池田先生は、日記に認め
ている。「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生、総司令……。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」(『若き日
の日記』、1956年9月5日)
「晋作」とは、松陰の弟子・高杉晋作。戸田先生が「会ってみたい」と語っていた風雲児である。
池田先生は、山口に縁故のある同志を派遣メンバーとして募り、拡大の計画を綿密に練った。「山陽方面の派遣闘争日程を決める」「歴
史的、先駆の闘争だ。誇り高き、前進を」(同、同年10月1日)
滞在費を工面するのも大変な中、全国26支部から派遣された同志は、山口広布の「開拓」の使命に燃えて活動を展開していった。
“草の根”を貫いたところが勝つ
1984年10月21日、池田先生は2万人の山口記念文化祭に出席し、
同志の奮闘をたたえた(山口県スポーツ文化センターで)。
その3日後、旧・岩国文化会館での自由勤行会で山口開拓指導に
ついて触れ、「永遠不滅なるものは妙法のみである。
永遠に、生命を飾りゆくものこそ信心」と語った
平坦な道を
悠々と歩むより、
嶮しき山を登ろう。
革命児は。
「若き日の日記」1956年(昭和31年)12月23日から
〈拡大の原動力〉
一、勝利への揺るぎなき一念
一、祈りを合わせる
一、電光石火のスピード
(「随筆 我らの勝利の大道」〈未来を開く青年大会上.〉から)
魂を揺さぶる励まし
先生の山口入りは、1956年(昭和31年)10月から翌年1月までの間に3度。それぞれの訪問に、明確な意義を定めた。1回目──現地
の同志と心を合わせ、闘争の火ぶたを切る。2回目──組織の勢いをつける。3回目──拡大をし抜いて勝利を決める、である。
池田先生の1回目の山口入りは、10月9日から18日の10日間だった。9日の早朝、先生は山口・下関駅に降り立った。
下関の拠点に到着すると、居並ぶ地元の同志や、派遣メンバーと祈りを合わせ、御書の「四信五品抄」を拝読した。山口開拓指導でも、
「大阪の戦い」と同様、「祈り」と「御書」を根幹とした勝利のリズムを徹底したのである。
さらに、勝利の方程式として先生が示したのは、“中心者に呼吸を合わせる”ということだった。
防府では、なかなか対話が実らない状況が続いた。先生は下関で指揮を執っていたが、派遣メンバーは防府にとどまって対話を続け
た。“下関に移動する時間を、対話に使った方が効率が良い”と考えていた。
先生は防府を訪れた折、派遣メンバーを諭した。
「君たちは、なぜ下関に来ないんだい。私は折伏の師匠である戸田先生の名代として指揮を執っている。その中心に呼吸が合わなけれ
ば、折伏はできないよ」
物事を効率良く進めることは大切だ。だが、それだけで広宣流布が進むわけではない。「中心者に呼吸を合わせる」とは、自らの境涯を
広げることである。先生は、派遣メンバーの団結できない“一念の壁”を破ろうとしたのである。
山口に滞在中、先生は県下7都市を転戦しながら、一人一人に徹底して励ましを送り続けた。その激励は、“幸福にせずにはおくものか”と
の、真心と執念に満ちていた。
10月18日、岩国で弘教に励んでいた仙台支部の一人の派遣メンバーは、先生を乗せた列車が岩国駅を通ることを聞いた。この日は、先生
が1回目の山口入りを終え、宇部から関西へと向かうタイミングだった。
列車が岩国駅で停車すると、先生はホームに降りた。派遣メンバーが、目標である5世帯の弘教が実った喜びを報告すると、先生は「ご
苦労さま。本当にご苦労さま」と優しく包み込むように励ましを送った。列車に戻った先生は、岩国駅に集った友たちの姿が見えなくな
るまで手を振った。一瞬でも、一言しか声を掛けられなくとも、先生は友との出会いを大切にし、真心の絆を結んでいった。
先生は強調する。
「日の当たらないところまで光を当てて、あらゆる人を味方にしながら、新しい道を切り開く。そうやって勝利してきたのが、学会の歴
史である」
先生が、再び山口に入ったのは11月15日。2回目の山口滞在は、21日までの7日間。貴重な時間を無駄にできない。電光石火で動き、激
励に次ぐ激励を重ねていった。
弟子よ偉大であれ
会える人だけでなく、会えない人にも励ましを──先生は山口開拓指導で、ペンを走らせ、筆を躍らせた。
徳山市(現・周南市)の拠点に、広島からの派遣メンバーがやって来た。婦人たちは、わずかな縁をたどり必死に対話を繰り広げてい
た。先生は、さまざまな状況を聞くと、留守を守る夫に、はがきを書いた。
「留守、何かと不自由と存じますが、よろしく頼みます。使命を果し早急に帰宅する様 申し居きました」
別の友には、こう記した。
「お葉書で失礼致します。奥様 元気で徳山にて頑張って居られます……山口の廣布の夜明です」
先生は、目の前にいない同志にも心を配り、感謝を述べた。
「山陽広布の黎明の聖鐘を打とう」──19日には、墨痕鮮やかに認めた。
この揮毫を受け取ったのは、高森(現・岩国市)の地で結核と闘いながら対話に奮闘する女性だった。「高森の人へ」との伝言が添えら
れていた。
20日、先生は萩市に足を延ばした。渾身の激励の合間を縫って、萩城址や松下村塾を訪れた。
明治維新の歴史に触れながら、先生は同志に語っている。
「吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。戸田先生が、どんなに偉大で
も、弟子のわれわれがしっかりしなければ、なんにもならない」
翌年1月、先生は3回目の山口入りを果たす。先生自らが、弟子の模範を示し、山口県下の世帯数は、4カ月前から約10倍の4073世帯へ
と大拡大を遂げたのである。
吉田松陰は、「草莽崛起(民衆の決起)」を訴えた。山口開拓指導は、自他共の幸福のために、庶民が立ち上がった歴史である。
「草莽崛起」の思想を通し、先生は中国方面の同志に強調した。
「民衆とともに進んだところが勝つ。『草の根』の闘争を貫いたところが勝つ」
「『草の根の戦い』は、現実に根を張っているゆえに地味である。たいへんである。つらいことや、ときには、つまらなく思うこともあ
るかもしれない。
しかし、『草の根』の戦いがいちばん強く、いちばん尊いのである。これをやりぬいているから、学会は強い。学会は負けない」