〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉
2021年9月16日
ネパール随一の最高学府・国立トリブバン大学で講演を行う池田先生
(1995年11月2日)。釈尊の人間主義の哲学を「智慧」と「慈悲」の視
点から考察した。先生は「釈尊こそ、比類なき『人間教育の大家』であ
ったと思うのであります」と
連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠
玉の指導・激励を紹介します。今回は小説『人間革命』『新・人間革命』
から、「立正安国」(全4回予定)の第2回を掲載します。
平和担う人材育てる「教育的母体」
〈1956年(昭和31年)7月、創価学会は初めて参議院議員選挙に候補(全国区4人、地方区2人)を推薦。山本伸一が指揮を執った大
阪地方区は勝利を収めたが、当選は6人中3人にとどまる。伸一は、戸田城聖と今後の支援活動について語り合う〉
戸田は、急に観点を変えて話しだした。
(中略)
「新しい民衆の基盤から、新しい民衆の代表である政治家を誕生させることが、今ほど望まれている時代はないだろう。創価学会から、
同志を政治の分野に送ったのも、時代の要請ともいえる。(中略)
今回の選挙でも、学会の支援活動は、政治に無関心であった多くの人びとに、政治への関心をもたせた。これには、大きな意味がある。
本来、政治は民衆のものだから、人びとが、政治を監視する意識をもつことが大事だ。そうした土壌を深め、広げていけば、そこから、
新しい本格派の政治家が出現していくにちがいない。政治家を育てるのは、結局は民衆であるからだ。
将来、何十年先になるかわからないが、多くの民衆の期待に応え、衆望を担う真の政治家が、続々と出現したらどうだろう。世論は、彼
らを信頼するに足る政治家として、支持するにちがいない。(中略)
政治家一人では、何もできるものではない。民衆が大事なんだよ。つまり、人間が原点だ。人間が的だよ。
また、こうも考えられる。
広宣流布が進んでいけば、社会のあらゆる分野に人材が育っていく。政治の分野にも、経済の分野にも、学術・芸術・教育など、どんな
分野にも、社会の繁栄、人類の平和のために、献身的に活躍している学会員がいるようになるだろう。(中略)
要するに、創価学会は、人類の平和と文化を担う、中核的な存在としての使命を課せられることになると、私は考えている。
伸ちゃん、創価学会は、そのための人材を育て上げていく、壮大な教育的母体ということになっていくんじゃないか。要は、『人間』を
つくることだ。伸ちゃん、この人間革命の運動は、世界的に広がっていくことになるんだよ」
戸田は、伸一と語り合っているうちに、知らず知らず、広宣流布の未来図を話していた。(中略)伸一は、その未来図を、遠く望むよう
に目を細めて言った。
「創価学会が、広く社会を潤し、壮大な人間触発の大地となる。そこから、人類の輝かしい、新しい未来が眼前に開ける、まことに雄大
な構想ですね。ずいぶん先の将来に思えますが……」
「遠いといっても、百年も先ということにはなるまい。しかし、私の生涯に、そのような時代が来るとは思えない。伸ちゃん、君たちの
時代だ」
(『人間革命』第10巻「展望」の章、341〜344ページ)
国家権力から「信教の自由」を守る
〈1962年(昭和37年)1月、創価学会推薦の議員らによって、「公明政治連盟」の発足が発表される。これによって政治団体の“公政
連”と宗教団体である創価学会の役割がより明確となった〉
山本伸一が「公明政治連盟」という政治団体結成に踏み切った最大の理由は、創価学会は、どこまでも宗教団体であり、その宗教団体
が、直接、政治そのものに関与することは、将来的に見て、避けた方がよいという判断からであった。
いわば、学会として自主的に、組織のうえで宗教と政治の分離を図っていこうとしていたのである。
本来、宗教団体が候補者を立てることも、政治に関与することも、憲法で保障された自由であり、権利である。宗教団体であるからとい
って、政治に関与することを制限するなら、「表現の自由」「法の下の平等」、さらには「信教の自由」をも侵害することになる。
憲法の第二〇条には「政教分離」がうたわれているが、ここでいう「政」とは国家のことであり、「教」とは宗教、または宗教団体をい
い、国と宗教との分離をうたったものである。つまり、国は、宗教に対しては中立の立場を取り、宗教に介入してはならないということ
であり、宗教が政治に関与することや、宗教団体の政治活動を禁じたものではない。
憲法にうたわれた「政教分離」の原則とは、欧米の歴史をふまえつつ、戦前、戦中の、国家神道を国策とした政府による宗教弾圧の歴史
の反省のうえに立って、「信教の自由」を実質的に保障しようとする条文にほかならない。
したがって、創価学会が政界に同志を送り出すことも、学会自体が政治活動を行うことも自由である。
宗教も、政治も、民衆の幸福の実現という根本目的は同じである。しかし、宗教が大地であるならば、政治はその土壌の上に繁茂する樹
木の関係にあり、両者は次元も異なるし、そのための取り組み方も異なる。
たとえば、核兵器の問題一つとっても、核兵器は、人類の生存の権利を脅かすものであり、絶対に廃絶しなければならないという思想
を、一人ひとりの心に培っていくことが、宗教としての学会の立場である。それに対して、政治の立場は、さまざまな利害が絡み合う国
際政治のなかで、核兵器の廃絶に向かい、具体的に削減交渉などを重ね、協調、合意できる点を見いだすことから始まる。
また、宗教は教えの絶対性から出発するが、政治の世界は相対的なものだ。
そうした意味から、やはり、宗教団体のなかでの政治活動と宗教活動との、組織的な立て分けが必要であると伸一は結論したのだ。そし
て、政治活動は、政治団体が主体的に行い、学会は、その支援をするという方向性を考えてきたのである。
(『新・人間革命』第5巻「獅子」の章、302〜304ページ)
各人の心に生命尊厳の法理を確立
〈1954年(昭和29年)の春のある夜、戸田城聖は「王仏冥合」すなわち、王法(世間の法)と仏法が奥深くで合致するとはどういう
ことか、山本伸一に語った〉
「『王法』とは、そのまま解釈すれば、王の政治ということになるが、ただ政治だけに限定するわけにはいかない。むしろ、王の定め
た法の及ぶ範囲、すなわち、世間法ととらえるべきだろう。
つまり、政治だけでなく、経済も、教育も、学術も含め、社会の文化的な営みのすべてを、『王法』と解釈すべきだ。そして、『王法』
と『仏法』の『冥合』とは、いかなる姿をいうのかが、極めて重要になってくる」(中略)
「『王仏冥合』は、政治と仏法が制度的に、直接、一体化することでは決してない。 まず、『三大秘法抄』で述べられた『王法仏法に
冥じ仏法王法に合して』(御書1022ページ)とは、いかなることか、から考えなくてはならない。
この『王法仏法に冥じ』の『冥』の字には『暗い』『幽か』『深い』という意味がある。つまり、表面的な形式や制度上の合体とは異な
っている。『王法』と『仏法』が、奥深くで合致することであり、人間の営みである、あらゆる文化の根底に、仏法の哲理、精神が、し
っかりと定着するということだ。もちろん、文化の根底といっても、社会を建設していく人間の心、一念のなかに仏法の哲理が確立され
ることを意味する。
また、『仏法王法に合して』とは、仏法の哲理、精神が、一人ひとりの生き方、行動を通して表れ、世間の法が、社会そのものが、仏法
の在り方と合致していく姿だ。
仏法の哲理とは、簡単にいえば、『皆宝塔』『皆仏子』なるがゆえに、人間の生命は尊極無上であり、誰もが皆、幸福になる権利をもつ
というものだ。また、それを実現するための慈悲のことだよ。そして、自身の仏の生命を開き、いかなる環境にも負けない、創造的で主
体的な自己を確立する人間革命の思想が仏法だ。いわば、仏法の哲理は、生命の尊厳と、人類の平等と、自由の原理であり、人権を守
り、本当の民主主義を実現する根本の理念になるものといえる。
その仏法を一人ひとりの心に打ち立て、人格を陶冶していくことが、大聖人の示された社会建設の基本原理であり、その帰結が『王仏冥
合』ということだ。
要するに『王仏冥合』といっても、あるいは『立正安国』といっても、具体的な一個の人間を離れてはあり得ない。それは、どこまで
も、人間一人ひとりの一念を変え、生命を変革していく人間革命ということが、最大のポイントになるのだよ」
(『新・人間革命』第5巻「獅子」の章、325〜327ページ)
※小説の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。