〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第10回
2021年7月26日
宗門の悪僧らが広布破壊の画策を巡らせた1979年(昭和54年)
8月、池田先生は長野研修道場を初訪問。26日、駆け付けた約3000
人のメンバーとの記念撮影が行われた。謀略の嵐にも、師弟の絆は
いささかも揺らぐことはなかった
その日、池田大作先生の手は赤く腫れ上がった。1965年(昭和
40年)3月22日、宮城・仙台市で東北第1本部の地区部長会が終わ
った後のこと。先生は約600人の参加者全員と握手した。
「勝利の年」と名付けられたこの年、先生は聖教新聞で小説『人間
革命』の連載を開始。年頭から九州、関西、中国、中部と全国を駆
け巡った。
行く先々で出会った友に声を掛け、握手も交わす。激励に次ぐ激励は、広布の伸展を加速させていった。握手の
時、喜びいっぱいに、師の手を力強く握り締める友もいた。東北の地区部長会でも、600人の誓いを込めた握手
が、次々と交わされた。
先生の手に痛みが走った。万年筆を握ることすらできなくなった。8日後の30日には、長野本部の地区部長会が
予定されていた。
生涯の原点となる出会いをつくってあげたい──その一心で握手に代わる激励として考えられたのが、記念撮影
だった。
65年3月30日、先生は長野会館(当時)の庭にヒマラヤ杉を記念植樹。地区部長会では、勤行と折伏をたゆま
ず、繰り返し実践していくところに信仰の本義があると強調し、どこまでも「持続の信心」で進んでいくことを
訴えた。
その後、先生は休む間もなく撮影会に臨んだ。参加した婦人は、「先生と一緒に撮影した写真は、かけがえのな
い“宝の一枚”です」と語る。
撮影会から2年が過ぎた67年(同42年)1月、婦人は松代支部の支部婦人部長に。
当時、松代地域は群発地震が続き、多くの人が不安を抱えて、生活していた。“今こそ、地域に希望を広げよ
う”と、支部の同志と共に対話に歩いた。翌2月、松代支部は全国をリードする弘教を成し遂げた。
82年(同57年)、夫が勤めていた印刷会社が倒産。経済苦の中、池田先生との懇談会があった。先生は、じっ
と婦人の目を見つめ、語った。
「決して退いてはいけない」
たった一言だった。しかし、その一言が婦人から弱気をたたき出した。“悩みがあるから、信心で立ち上がり、前
に進む。それが弟子だ”と心を一変させた。その後、夫は新しい仕事に就くことができた。
翌83年(同58年)、長野県婦人部長に。正役職を離れた後は、長野市女性団体連絡会の会長を務めるなど、地域
活動に率先してきた。
現在、夫と共に長野市の俳句連盟に所属し、地域に対話の花を咲かせる。その心には、励ましを送り続けてくれ
た師への感謝があふれている。
撮影会の後、先生は別室に移ると、色紙に揮毫し始めた。友が家路に就いてからも、励ましの“戦い”は、寸暇を
惜しんで続けられた。
1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で開
催された記念撮影会。この時、撮影した高等部
のメンバーを、池田先生は「広島高等部グルー
プ」とすることを提案した。同グループの友は
互いに触発し合いながら、成長の足跡を刻んで
きた
前夜から降り続いた雨はやみ、早春の爽やか
な風がそよいでいた。1969年(昭和44年)3月
9日、広島市内で池田先生と約5700人の友との
記念撮影会が行われた。
3台の撮影台が準備され、14グループに分かれて、撮影が進められた。壮年部、婦人部、女子部と続き、316人の
男女高等部の撮影の後、先生は後継の友に万感の思いを語り始めた。
「私は君たちの成長を待っている。諸君たちは、実質的な学会の跡継ぎだ」
「一人も残らず、石にかじりついても勉強し抜いてほしい。この中から、やがて大政治家も、大学者も、大科学
者も出てほしい」
撮影会に参加した一人の男子メンバーは、専門学校を卒業後、電気関係の仕事に従事した。38歳で独立。設備関
連の会社を立ち上げた。
売り上げは日ごとに伸びた。事務所を構え、従業員を雇うまでに。だが、“増上慢の命”が顔をのぞかせた。次第
に、学会活動から遠ざかる。
ある日、保証人になっていた知人が行方をくらます。投資話の詐欺被害にも遭った。莫大な負債を抱え、瞬く間
にどん底に落ちた。
会社は倒産。生きる気力すら失いかけた。その時、先輩が一緒に祈ってくれた。撮影の原点を思い返し、宿命転
換を懸けて対話に挑んだ。
当時、壮年は地区部長だった。地区では20世帯の弘教が実った。壮年自身も友人を入会に導いた。その後、新た
な設備関連の会社を立ち上げる。誠実な仕事ぶりが評判を呼び、窮地を脱することができた。
壮年は今、安佐北区可部の地域で活動に励む。「可部から『壁』を破る戦いを」と友好拡大に走っている。
撮影会の時、会場の外に鼓笛隊が集っていた。撮影の予定はなかったが、先生は「鼓笛隊の皆さんとも撮影しよ
う」と。メンバーから歓声が上がる。
婦人は「高等部員」「鼓笛隊員」として、1日に2回、師とカメラに納まった。その喜びは今も胸に鮮やかだ。
後年、先生と岡山文化会館で懇談する機会に恵まれた。婦人は「広島で撮影をしてくださった高等部のメンバー
は皆、頑張っています」と報告した。
ところが、先生は強い語調で、「あなたが頑張ればいいんだよ」と。他の誰かではなく、自分がどうか──厳し
い響きに、婦人は「一人立つ信心」の大切さを心の奥深くに刻んだ。
2012年(平成24年)、広島市は被爆体験の“伝承者”養成の取り組みを開始した。
被爆2世の婦人は、母の被爆体験を伝えようと決めた。
3年の研修課程を修了し、伝承者の1期生に。国内だけではなく、海外でも核兵器の“悪魔性”を訴えてきた。
忘れられないのは、オランダでのこと。講演終了後、核兵器の存在を容認してきたオランダの与党議員が婦人の
もとに歩み寄り、「私は核兵器禁止条約の成立に力を尽くします」と決意を述べてくれた。
実際、2016年に「核兵器禁止条約」制定への交渉開始を求める決議の採択を巡り、北大西洋条約機構(NATO)
の加盟国が軒並み決議案に反対を示す中、オランダだけが唯一、反対を回避して棄権に回った。
「被爆体験を草の根で語っていくことが大きな力になる──そのことを確信する出来事でした」
今年2月にはインドのデリー大学、4月にはオランダのライデン大学で、それぞれオンラインの講演を。撮影会で
師が寄せた期待を胸に、婦人は平和のために戦う“ヒロシマの心”を語り続ける。
撮影会には、入会半年の男子高等部員もいた。「大学者」との師の言葉に、彼は“博士になろう”と決意。大学卒
業後、会社で研究を続けながら、工学博士の学位を取得した。
造花で彩られた会場の設営に、「歓喜」の文字が大きく掲げられた。その二字が象徴するように、東京・板橋の
友の喜びがはじけた。
1971年(昭和46年)10月17日。この日、池田先生と板橋の友との記念撮影会が開催された。「板橋の日」の淵
源である。
前年、言論・出版問題が起こった。広布の未来を展望する上で、本陣・東京の強化が急務だった。先生は東京各
区の友との記念撮影を開始した。その1番手が板橋であった。
場内の垂れ幕には、「板橋は仲良く地域社会を開発してまいります」。学会は翌72年(同47年)の年間テーマを
「地域の年」と掲げていた。
撮影は約4000人の同志が、17のグループに分かれて行われた。その合間に、先生は励ましを送った。
壮年・婦人には、「不動の幸福境涯を築いていく根源の法が信仰であり、皆さん方一人一人が功徳に満ちあふ
れ、子孫末代まで栄え、幸福であることが最大の喜びである」と。
青年部には、「現在はどのような境遇であっても、10年、20年と純粋な信仰を全うしていくならば、想像を絶す
る栄光の人生を切り開いていけることは間違いない」と強調した。
撮影会では、鼓笛隊の演奏や少年部員のリズム体操、中・高等部の創作舞踊“義経”が披露され、最後に婦人部が
「板橋音頭」を踊った。
“池田先生に喜んでいただける最高の踊りをしよう”との思いで撮影会に臨んだ婦人。1歳の長女を抱えながら練習
に駆け付けた。練習を終え、自宅に戻ると御本尊の前に座った。
長女にはぜんそくがあった。撮影会を終えた頃から快方に向かい始めた。“師匠を心のど真ん中に置いて、信心の
戦いに徹する時、必ず変毒為薬することができる”との確信になった。
以来、婦人はどんな時も、胸中に師を抱いて進んだ。長年にわたり地域行事に関わるなど、地域貢献にも力を注
いできた。
2019年(令和元年)、夫が亡くなった。婦人は「夫の分まで広布に尽くし、師恩に報いてまいります」と。3人
の娘も信心を継承している。
壮年は場外で整理・誘導の役員に就いた。師の指導を聞くこともできなかった。だが、板橋の原点となる歴史的
な行事で、“陰の戦い”ができることを誇りに感じ、任務に徹した。
中学を卒業してから働き始めた。17歳の時に参加した座談会で、「人間革命」という言葉を耳にした。“信仰で
自分が変われるなら”と入会を決めた。
先輩から「信心は“片足を突っ込む”ような中途半端ではいけない」と学んだ。撮影会は、信心根本の人生を歩む
誓いを深くする原点となった。
先生は撮影会で、「名実共に『地域の年』の第一歩となるにふさわしい歴史的な行事であり、まさに全東京の模
範となる記念撮影であった」と。
1972年、壮年は町会に入り、防犯・防火活動に尽力。地域に根を張り、地道に信頼を広げた。
その年の年末、壮年のもとに池田先生から一冊の書籍が届いた。「来る日も 来る年も 共に 智道の道 開道
の舞を 逞しく南無し歩もう」と揮毫されていた。
“来る日、来る年、師と共に進もう”と決めた。その誓いのまま、壮年は板橋広布の最前線を駆けている。
──撮影会の折、先生は“きょう、板橋に来させてもらって分かったことがあります”と語り、こう続けた。「板
橋は東京で一番いい街であります」
今年は「板橋の日」50周年。栄光の佳節を荘厳する、東京の模範・板橋の新たな勝利の幕が開く。
1回の記念撮影会で、池田先生は何回もフラッシュを浴び、目を痛めることもあった。撮影会に臨む思いを、先生
はこう記している。
「わが友が少しでも喜んでくれれば、なんでもするのが私の使命である」
----------
青:平和
黄:栄光
赤:勝利
----------
天舞支部所属の一個人サイトです。
支部の方々の活動の一助になれば
幸いです。