• ただいま、Word Press 猛烈習熟訓練中!!
Pocket

〈地域を歩く〉 鹿児島・北薩勇舞圏

2018年10月18日

 

 

待ちわびた“収穫の秋”

 

            「今年は夏場に雨が少なかった。

              やっと、収穫までたどり着いたよ」

            ――黄金の実りを喜び合う馬場さん夫妻

 

 “収穫の秋”が到来した。

御書では、成仏への道のりを稲の生育に例え、「秋のいねには早と中と晩との三のいね有れども一年が内に収むる

が如く」(411ページ)と記されている。不退の信心を貫けば、全ての人が平等に、一生のうちに最高の幸福境

涯を開けるとの仰せだ。

今回の「地域を歩く」は、農漁業が盛んな鹿児島県出水市、阿久根市、長島町へ。この地を広布の舞台とする北薩

勇舞圏(桂木裕治圏長、築地民子婦人部長)の友に「信心で得た一番の“人生の収穫”」を聞いた。

 ◇

「何でも、ほったらかしではいけないということだね。自分から行動を起こした分だけ、周囲の環境も変わってい

くのかな」(馬場喜作さん、地区部長)

生まれ育った長島町で稲作に取り組む。刈り入れ作業が間もなく始まるという。

戦後、農業を営む一家に生まれた。信心を始めたのは、中学生の時。原因不明の病に倒れた母親の回復を願い、家

族と共に入会した。次第に母の病は快方へ。だが、旧習深い長島では、信仰体験を語り歩く両親が近隣から疎まれ、

村八分同然の扱いを受けた。

馬場さんは中学卒業と同時に、静岡・浜松の自動車工場に集団就職した。仕事と学会活動に全力で励み、青春の原

点を刻んだ。さらに、職場で出会った長島出身のテル子さん(白ゆり長)と結ばれた。

そんな馬場さん夫妻が帰郷したのは1983年(昭和58年)8月。馬場さんの母の死がきっかけだった。

 

充実と歓喜の人生は挑戦の日々の中に

 

        東光山公園の展望台から出水平野を望む。

         同平野は、日本一のツルの渡来地として

          知られ、毎年10月中旬以降、約1万羽の

           ツルがロシアのシベリアなどからやって

            来るという

 

 夫妻で農業を継ぐ決意をして戻ったものの、二人は長年、長島を離れていたため、初心者同然。馬場さんの父か

ら苗の作り方などを教わるところからのスタートだった。

年々、稲作の研究を重ねた。やがて周囲から「おいしいね」と言われる米を栽培できるようになった。

さらに、馬場さんは地域の人々から推薦され、公民館長や農業委員を務めるように。皆の意見に耳を傾け、地域の

問題解決を図ったり、陳情したりと、学会活動で培った力をいかんなく発揮。学会を見る”地域の目”が変わってい

った。

馬場さんは、テル子さんと田んぼを見つめながら言った。「学会員で良かったと、つくづく思います」

 

14日に鹿児島市内で行われた「全国人間教育実践報告大会」(主催=創価学会教育本部)。席上、紹介された

池田先生のメッセージの中で、ある青年教育者について触れられていた。初代会長・牧口常三郎先生が、かつて校

長を務めていた小学校に勤務していた人物である。

牧口先生は、出水市出身のその青年に”一緒に素晴らしい人生を送ろう”と、激励のはがきを送り、成長を陰から支

えた。

どこまでも青年の未来を信じ、励ます――これが、北陸勇舞圏の友の誇りである。

「その時は思ったような結果が出なくても、見守り続けることが大事なのかなと思います」(外園みどりさん、支

部副婦人部長)

これまで多くの青年部メンバーとかかわり、その成長を見守ってきた。そのうちの一人が、現在、圏男子部長を務

める坂本大樹さんである。

外園さんは、坂本さんが幼かった頃、坂本さんの一家と同じ地区に所属していた特に、坂本さんの母親とは、同志

として、また子育て仲間として親しく付き合っていた。

だが、坂本さんが小学1年生となったある日、突然、坂本さんの母が入院した。末期の胃がんだった。

周囲の同志は、一家に祈りと励ましを送った。特に、外園さんは、仕事で家を空けることが多かった坂本さんの父

親の代わりに、坂本さんの食事や洗濯など家事の世話をしたこともあった。

8カ月間の闘病の末、坂本さんの母は30歳の若さで帰らぬ人となった。

外園さんは振り返る。

「人生であれほど涙を流したことはありません。大樹君には、悲しみを乗り越え、立派に成長してほしいと思いま

した」

坂本さんは中学卒業後、一家を支えるため、高校には進学せず、大工の仕事を始めた。やがて生活に余裕がなくな

り、学会活動からも遠ざかっていった。

さらに、坂本さんは同僚に騙されて大金を失い、人間不信に陥ってしまう。だが学会の同志だけはどんな時も、変

わらずに励まし続けた。

「なぜ、これほどまでに、人のために行動できるのだろうか」――そう考えていたある日、坂本さんは気付く。

母が病気になり、亡くなって以来、自分や家族のことを思い、寄り添ってくれたのは学会員の方々だったと――。

「心から感謝の気持ちが芽生えたんです。その日は、ちょうど母の誕生日でした。母が亡くなった30歳まで一生

懸命、学会活動に挑戦し、恩返ししようと決意しました」

以来、坂本さんは、信心根本に、技術を磨いた。

30歳で1級技能士の資格を取得。勤続20年の節目には、出水商工会議所から「永年勤続優良従業員」として表

彰された。

広布の組織では、現在、圏男子部長として友の激励に走る。

 

「イチゴ栽培も信心も一緒です。一歩一歩、進んでいくことが大事なんです」(新穂輝子さん、県副婦人部長)

阿久根市内に立つビニールハウスで、夫・敏憲さん(副支部長)とイチゴを栽培している。

現在、来月の収穫に向け、古くなった下葉を取り除き、マルチング(土壌を保温し、これから成るイチゴが汚れな

いように畑の表面をビニール等で覆うこと)を進める。一方、自宅の隣では、来年分の育苗もするなど、慌ただし

い日々を過ごしている。

そんな新穂さんだが、もともとは農業とは縁遠い生活を送っていた。

出水市に生まれ、高校卒業後、同市内や鹿児島市内で事務の仕事をしていた。その後、父親が病気で他界し、実家

には一人、母親だけが残された。この頃から、新穂さんは将来に漠然とした不安を抱くようになった。

そんな時、新穂さんは仏法の話を聞いた。1年間聖教新聞を熟読。”自分を強くし、問題を解決していく信心” に共

感し、1988年(昭和63年)に入会した。その後、母親と二人で暮らすために、出水市に戻った。そこで知り

合ったのが、農業にかかわっていた敏憲さんだった。

やがて二人は結婚。その後、農協からの提案で、95年(平成7年)に始めたのがイチゴの栽培だった。

敏憲さんですら未経験。まして新穂さんにとっては農業自体が未知の世界だった。

「”百姓”というくらいですから百の手が掛かるんですね」――試行錯誤の連続だったと新穂さんは振り返る。

何度もやめようかと思ったが、イチゴ栽培も信心も一歩も引かなかった。

やがて農薬や化学肥料を減らしながら、収量の増加や味の向上を目指す研究が、周囲の関心を集めるように。

98年(同10年)、農業労働快適化コンテストで優秀賞を受賞した。

イチゴ栽培は今年で24作目。農協では、二人でイチゴ部会の部会長や女性部長を歴任するなど、信頼は厚い。

「花や実になったときは、その美しさに目が覚めるような思いがするんですよ」――こう栽培の喜びを話す敏憲さ

んを見て、新穗さんは言った。

「夫は、私じゃなくてイチゴに魅せられているんです(笑)」

 ◇

 北薩勇舞圏の地域では、第1次宗門事件の際、暴風が吹き荒れた。

「あの時ほど、苦しかったことはありません」(猿楽美穂さん、総県婦人部主事)

「同志の激励があったからこそ、乗り越えることができました」(松浦菊雄さん、副圏長)

以来、同志は、池田先生とともに反転攻勢の拡大に挑んできた。

その子弟の誓いの原点が、間もなく迎える10・22「圏の日」である。池田先生は98年(同10年)のこの日、

壁を破る拡大の金字塔を打ち立てた友を励ました。

初代圏長で、当時をよく知る宮路量温さん(副県長)は言う。「あの日以来、皆が一つ一つの広布の戦いに、一層

真剣に取り組んできました」

先生は、巡り来る「学会の記念日」について、小説『新・人間革命』第25巻「人材城」の章につづっている。

「大事なことは、その淵源に立ち返えり、歴史と精神を子々孫々にまで伝え、毎年、新しい決意で出発していくこ

とです」「これまでの歴史も、記念日も、すべて現在の力へと変えていってこそ、意味を持つんです」

全国・全世界の同志が目標とする広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」まで、あと1か月となった。

この”時”、この”地”で広布に生きる使命を自覚し、挑戦の日々を貫きたい。それが、充実と歓喜の”人生の収穫”に

つながっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください