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9月度座談会拝読御書 四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)

2018年9月4日

御書全集 1143ページ5行目~6行目

「苦楽ともに思い合せて」広宣流布へ揺るぎない自身を築くための信仰

本抄について

本抄は、建治2年(1276年)6月、日蓮大聖人が身延の地から鎌倉の四条金吾に宛てて送られたお手紙です。

別名を「衆生所遊楽御書」といいます。

2年前の文永11年(1274年)、大聖人が流罪の地・佐渡から戻られたことに歓喜した金吾は、主君の江間氏

を折伏しました。

しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者であったため、金吾は主君の不興を買い、遠ざけられるこ

とになりました。さらに、同僚からの中傷もあり、金吾は江間家の中で孤立し、命まで狙われる事態となりました。

当時、金吾が「大難雨の如く来り候」(御書1136ページ)と漏らしていることからも、大変苦しい状況に置か

れていたことがうかがえます。

大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文を引かれ、題目を唱えていくことが一切衆生にとって真

実の遊楽であることを強調されています。

拝読御文

『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自

 受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ』

唱題根本

苦しくとも、楽しくとも、どんな時にも唱題根本に進んでいくことが、信仰者にとって最も肝要な姿勢です。

私たちは、自身の生活上の課題について、ともすると自分の力や経験で何とかできると考えたり、信心とは別の問

題と捉えたりして、朝晩の祈りと生活を切り離して考えることがあるかもしれません。

しかし、日蓮大聖人は、生活のあらゆる場にあって、御本尊への祈りを根本に置いて行動していくべきことを、次

のように指導されています。

「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、『諸余怨敵・皆悉摧滅』の金言むなしかるべからず、兵法剣

形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」

(御書1192ページ)

これは武士であった四条金吾に対しての御指導ですので、「兵法」「兵法剣形の大事」等と表現されていますが、

広く言えば「兵法」とは「仕事や生活のうえでの具体的方策」ということです。

そうした方策を生み出す根本は全て妙法に具わっていることを示されて、生活にあっても御本尊への祈りを根本と

して、その上に、あらゆる方策・手段を用いていくよ

う教えられています。

 

衆生所遊楽

拝読御文の「自受法楽」は「自ら法楽を受く」と読みます。法楽とは、仏の覚りを享受する最高絶対の幸福のこと、

妙法の功徳を自身が受けることをいいます。

日蓮大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文は、この自受法楽のことを言っているのであると示

されています(御書1143ページ)。

「衆生所遊楽」は、仏が住む国土の様子について述べた部分に出てくる言葉で、「衆生の遊楽する所なり」と読み

ます。経文には“仏の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの衆生で満ちている”とあり、例えば、植物が豊かに生

い茂るような楽しい場所である、と説明されています。

法華経以外の爾前経では、仏の住む世界を「浄土」とし、これは、衆生が苦悩を耐え忍ぶ現実世界の「穢土」とは

懸け離れた“別世界”であると説いてきました。

ところが、法華経では、仏も衆生も同じくこの現実世界に住んでおり、衆生がさまざまな悩みや苦難と向き合い、

乗り越えようと挑戦しているこの世界こそ「衆生所遊楽」すなわち、衆生が遊び、楽しむ場所であると説き明かさ

れたのです。

「一生成仏抄」に「浄土といい穢土といっても、土に二つの隔てがあるわけではない。ただわれらの心の善悪によ

るのである」(同384ページ、通解)とあります。

「浄土」「穢土」といっても、別々に存在するのではない。衆生の「心の善悪」によって決まるものである、との

意味です。

自らが妙法根本に一念を変革することによって、「穢土」である現実世界をそのまま「浄土」へと変革していくこ

とができます。

第2代会長の戸田城聖先生は、「衆生所遊楽」を引用して、「御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽

しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」

と語っています。

日々挑戦の信心

日蓮大聖人は御書の随所で、強盛な信心を奮い起こして前進していく大切さを御指導されています。

私たちの生命は、どこかに固定的にとどまるものではありません。また、どこかに終点があって、そこに安住でき

るというものでもありません。ゆえに、信心は、一瞬一瞬、自身に勝利する持続の実践が必要となるのです。

大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書1190ページ)と油断

や停滞を戒められ、また「今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」

(同750ページ)と、間断ない精神闘争の中に真実の安楽の境涯が開かれることを教えられています。

こうしたことから大聖人のお手紙には、長く信心を続けてきた門下に対して、それまでの信心の実践をたたえつつ、

さらに、いよいよ信心を奮い起こしていくよう励まされた仰せが数多くあります。

「弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」(同1071ページ)

「いよいよ強盛の御志あるべし」(同1221ページ)

今から未来へと、常に前進していくあり方が、本当の信心の姿であり、人生に勝利するための尊い姿勢なのです。

池田先生の指針から 強盛な祈り、持続の祈りを伸一は、さらに、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽とも

に思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(御書1143ページ)の箇所について語った。

「人生には、迫害の嵐、宿命の嵐が吹き荒れ、苦悩に苛まれることもあります。

『苦』に直面した時には、その現実をありのままに見つめ、逃げたり、退いたりするのではなく、“よし、信心で

打開しよう”と、ひたすら唱題に励んでいくことです。

また、楽しい時、嬉しい時にも、感謝の心をもって御本尊に向かい、題目を唱え、歓喜を、さらなる歓喜の要因と

していくんです。苦楽ともに唱題し抜く。その弛みなき精進のなかに、持続の信心のなかに、宿命の転換も、人間

革命もあるんです。“題目を唱えることが、楽しくて、嬉しくてしょうがない”と実感できるようになれば本物です」

強盛な信心とは、強盛な祈りであり、持続の唱題である。

“唱題第一の人”は――揺るがない。臆さない。退かない。敗れない。胸中に、不屈の闘魂と歓喜の火が、赤々と燃

えているからだ。(小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章)

◇ ◆ ◇

四条金吾は、日蓮大聖人が竜の口で処刑されんとするとき、まっ先に駆けつけた。

大聖人が乗られている馬の轡にしがみつき、大聖人に何かあったならば、自分も腹を切って、死んで大聖人にお供

申し上げようとした強信者です。

師子の道を、まっしぐらに走った、強き強き信心の門下です。その金吾にさえ、大聖人は「いよいよ強盛の信力を」

と言われているのです。

「いよいよ」です。過去ではない、「今これから」です。

「信力」です。「信」は「力」です。人間のもつ最強のエネルギーなのです。

信力と行力に応じて、御本尊の仏力・法力を頂戴できます。「信心」こそ、宇宙を回転させる根源の力と日常生活

を、しっかり結合させる秘術なのです。(『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻)

参考文献

〇…『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻に所収の「四条金吾殿御返事」(聖教新聞社)

 

 

 

 

 

 

 


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