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誓願 百六

 一九七四年(昭和四十九年)、山本伸一は、ブラジルを訪問する予定であった。しかし、

学会に対する誤解などがもとでビザが発給されず、結局、ブラジル行きはなくなった。

この時、パラグアイ音楽隊は、伸一の前で演奏し、パラグアイの同志の心意気を示したい

と、ブラジルをめざした。ところが、彼らも入国は許可されなかった。それでも、観光地

であるブラジル国境のイグアスの滝までは、バスで入ることができた。

「よし、ここで演奏しよう! 自分たちの心は、先生に届くはずだ」

彼らは、大瀑布の轟音と競うかのように、力いっぱい演奏した。

その十年後の八四年(同五十九年)、伸一は十八年ぶりにブラジルを訪れた。喜びに胸を

躍らせて駆けつけたパラグアイのメンバーが、伸一の前で熱唱したのが、この「パラグア

イ本部歌」であった。

  
 〽梢をわたる 風の音

  コロラドの森 越えゆけば

  流れる汗か 同志の顔

  コロニア(入植地)の道 果てしなし

           (作詞・山本邦男)
  
歌を聴き終わった伸一は言った。

「いい歌だ! 決意が伝わってきます。

今度は、パラグアイにも行くからね」

以来九年、遂に、念願が叶い、この日を迎えたのだ。

「友好の夕べ」で伸一は、音楽隊、鼓笛隊の演奏に大きな拍手で応えながら言った。

「ありがとう! 生命が共鳴しました。

二十一世紀には、青年の皆さんが、草創の同志の後を継いで、使命の空へ、大きく羽ばた

いてください。また、皆が私を超えていってください。その時、広宣流布の流れは、全世

界を潤す、滔々たる大河となるでしょう」

二十二日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その折、長編詩「民衆の

大河の流れ」を贈っている。

 

 

誓願 百七

 山本伸一は、大統領との会見に続いて、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功

労大十字勲章」の授章式に出席するためである。授章式であいさつに立った外相は、伸一

の平和行動に言及し、こう語った。

「誠実な『対話』を通してのみ、差別をなくし、地球規模での恒久平和と相互理解が得ら

れるとの信条による、会長の平和への戦いは、人類の規範です」

さらに、この二十二日には、パラグアイ国立アスンシオン大学から伸一に、哲学部名誉博

士号が贈られ、その授与式に出席した。

そして、二十三日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。

 「天も地も 川の流れも 仏土かと

    地涌の菩薩の 君たち忘れじ」

彼がパラグアイの友に贈った和歌である。

パラグアイを発った搭乗機は、アンデス上空を飛行していった。眼下に広がる山々の残雪

が、夕映えのなかで、黄金に輝いていた。

チリは、伸一にとって、ちょうど五十カ国目の訪問国となる。思えば、どの国も、一つ、

また一つと、全精魂を注いで歴史の扉を開く、真剣勝負の広布旅であった。

戸田城聖は、第二代会長に就任した翌一九五二年(昭和二十七年)の正月、「いざ往かん

月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠んだ。また、生涯の幕を閉じる十日

ほど前、伸一を枕元に呼び、メキシコに行った夢を見たと語った。

「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。

広宣流布の旅に……」――そして、命を振り絞るようにして言うのであった。

「君の本当の舞台は世界だよ」「うんと生きるんだぞ。そして、世界に征くんだ」

戸田の心は、全世界の民衆の幸福にあり、世界広布にあった。しかし、恩師は、一度も海

外に出ることはなかった。伸一は、戸田の言葉を遺言として生命に刻み、師に代わって世

界を回り、「太陽の仏法」を伝えてきた。

 

 

誓願 百八

 山本伸一は、恩師・戸田城聖の逝去から二年余がたった一九六〇年(昭和三十五年)

五月三日、第三代会長に就任すると、その五カ月後の十月二日には、世界平和の旅へ出発

した。

第一歩を印したハワイでは、連絡の手違いから、迎えに来るべきメンバーも来ていなかっ

た。旅先で著しく体調を崩し、高熱に苦しんだこともあった。学会への誤解から、政治警

察の監視のなかで、同志の激励を続けた国もあった。

北・中・南米へ、アジアへ、ヨーロッパへ、中東へ、アフリカへ、オセアニアへと、人び

との幸福を願って駆け巡ってきた。

社会主義の国々へも、何度となく足を運び、友誼と文化の橋を架けた。

日蓮大聖人の御遺命である「一閻浮提広宣流布」を実現するために、命を懸ける思いで世

界を回り、妙法という平和と幸福の種子を蒔き続けてきた。恩師の戸田と心で対話しなが

らの師弟旅であった。

その海外訪問も、このチリの地で、いよいよ五十番目となるのだ。

彼の脳裏に和歌が浮かんだ。

 「荘厳な 金色に包まれ 白雪の

    アンデス越えたり 我は勝ちたり」

やがて、山並みの上に、三日月が光を放ち、大明星天(金星)が美しく輝き、星々が瞬き

始めた。伸一には、それが諸天の祝福であるかのように感じられた。

チリに到着した翌日の二十四日、彼は、首都サンティアゴ市の市庁舎で、名誉市民称号に

あたる「輝ける賓客章」を受けた。

その授章決議書には、伸一の訪問は、「チリと日本の『人間相互の理解』を一層深め、さ

らには人間の基本的な価値観を共有する『友情の絆』を確固たるものにしていく『特別な

機会』である」と述べられていた。

その後、伸一は、サンティアゴのチリ文化会館を訪問し、第一回チリSGI総会に出席し

た。皆の喜びが弾けた。経済の混乱、軍事政権による人権侵害など、長い冬の時代を越え、

今、希望の春の到来を感じていたのだ。

 

 

誓願 百九

 チリの首都サンティアゴでは、一九七三年(昭和四十八年)、軍事クーデターが勃発した。

上空には戦闘機が飛び交い、街には戦車や武装兵があふれた。メンバーの中心者夫妻の家も、

戦いに巻き込まれ、機銃掃射を浴びた。二階は銃弾で蜂の巣のようになったが、夫妻は一階

の仏間にいて、無事だった。

二人は、戒厳令下の街へ飛び出し、同志の安否を気遣い、一軒一軒、訪ねて歩く日々が続い

た。集会は禁じられていた。訪問した家々で、“家族座談会”を開いて歩いた。

その後も、会合の開催には、国防省の許可が必要であり、場所も会館一カ所だけに限られた。

しかし、同志は皆、意気軒昂であった。会合の内容を視察に来た警察官にも、SGIの平和

運動のすばらしさを訴えた。

チリの同志は、頬を紅潮させて、当時の様子を山本伸一に報告した。

「牧口先生も、戸田先生も、戦時中、日本にあって、特高警察の監視のなかで、勇んで広布

に戦われてきた。また、山本先生は、私たちに、折々に心温まる励ましを送り、勇気をくだ

さった。先生は、すべてご存じなんだと思うと、力が湧きました」

師を胸に抱いて同志は走った。いつも心に師がいた。ゆえに負けなかった。各支部や地区で

自由に会合が開けるようになったのは、民主政権が実現した三年ほど前からである。

そのなかで、同志たちは、伸一のチリ訪問を願い、祈って、活動に励み、一日千秋の思いで

待ち続けたのである。

政情不安が続くなか、南北約四千二百キロという広大な国土で、知恵を絞り、工夫を重ね、

スクラムを組んで前進してきた同志の苦闘に、伸一は、胸が熱くなるのを覚えた。

地涌の菩薩は、日本から最も遠い国の一つであるチリにも、陸続と出現していたのだ。

チリ文化会館で伸一は、未来部の子どもたちにも声をかけた。

「出迎えありがとう。日本から来ました。日本は、海をはさんでチリのお隣の国だよ」

子らは夢の翼を広げ、目を輝かせた。

 

 

誓願 百十

 第一回チリSGI総会のスピーチで山本伸一は、チリの各地で活動に励む同志の労苦を

思いながら、「逆境に負けずに頑張り抜いてこられた皆様には、アンデスの山並みのごと

く、限りなく功徳が積まれていくことは絶対に間違いない」と賞讃した。

伸一は、さらに、このチリで、海外訪問は五十カ国・地域となったことを伝えた。

三十三年前、富士の高嶺を仰ぎつつ、世界平和への旅を開始して以来、五大州を駆け巡っ

てきた。そして、日本とは地球のほぼ反対側にあり、“南米の富士”(オソルノ山)がそび

えるチリを訪れたのである。

伸一は、烈々たる気迫で呼びかけた。

「戸田先生は、さぞかし喜んでくださっているにちがいない。しかし、いよいよ、これか

らが本番です。常に皆様を胸中に描き、日々、共に行動している思いで、全世界を、楽し

く朗らかに、駆け巡ってまいりたい!」

さらに、「賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(御書一一七四ページ)の御文を拝し、

賢明な振る舞いの大切さを強調。広宣流布を展望し、広く開かれた心で、メンバーではな

い方々にも、よく気を配り、互いに尊敬し合い、友情を大切にしながら、仲良く交流を深

めていくのが、私どもの信仰であると語った。

「信心即生活」であり、「仏法即社会」である。その教えが示すように、仏法は開かれた

宗教であり、決して、学会と社会との間に壁などつくってはならないことを、伸一は訴え

ておきたかったのである。

そして、結びに、「一人も残らず、大満足、大勝利、大福運の人生を!」と呼びかけた。

総会に続いて行われた「創価家族の集い」では、子どもたちが、大きな石像遺物モアイの

あるイースター島の踊り「サウサウ」を披露すれば、鼓笛隊が「春が来た」を演奏。また、

男女青年部は、民族舞踊「クエカ」を力の限り踊った。

チリにあっても、広布の開拓者である父や母の心を受け継ぎ、若き世代がたくましく育っ

ていた。希望があり、輝く未来があった。

 

 

 

 

 

 

 


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