2018年2月13日
君たちの勝利が私の勝利!――
香港中文大学への図書贈呈を終えた池田先生が、
駆け付けた創大生、卒業生とキャンパスで語り合う
(1983年12月)
1980年代、香港は大きく揺れていた。
97年の「返還」に向けて、中英両国の交渉が難航し、ていたからである。
82年には、中国の鄧小平氏とイギリスのサッチャー首相が会談を行い、
返還は現実味を帯び始めた。
祖国への回帰は望むものの、それ以上に市民は、異なる政治体制のもとで
の生活を心配していた。
社会には不安が渦巻き、海外への移住者が続出。その数は何万人にも及んだ。
さらに、83年9月には「ブラック・サタデー」と呼ばれる金融危機が発生。香港ドルが大暴落し、市場はパニッ
クに陥った。
「こういう時ほど、激励に駆け付けねばならない」――池田先生が香港に飛んだのは、この激動の渦中。同年の12
月1日であった。
両立への挑戦
79年以来、9度目となった香港訪問。翌2日の代表者会議で、池田先生は「97年問題」に直面する同志に、
確信を込めて語った。
「全く心配はいりません。自由と平和と文化の、国際的発展を誇る、この香港の大地で、妙法に照らされ、守ら
れながら、尊い一生を送っていただきたい」
一方で、こうも述べている。「香港広布の未来を展望する時、次代を担い立っていく青年たちの成長ぶりは、ま
ことにうれしく、素晴らしい」
初訪問から20年余。香港では、青年部の活躍が光っていた。その中には、創価大学に留学し、卒業した友も。
今年で結成35周年となる学生部が誕生したのもこの折である。
2日後には、若き力を中心に、第1回SGI香港文化祭が予定されていた。
申宝来(サンホウロイ)さん(副理事長)は述懐する。
「香港男子部長だった私は、文化祭の運営委員長を務めていました。会議の席上、『香港は大丈夫です。どうかご
安心ください!』と、青年部の心意気をお伝えすると、先生はとても喜んでくださいました」
迎えた当日(4日)は、朝から雲一つない青空が広がっていた。
会場となった九龍(カオルーン)の香港コロシアムには、開会前から人、人、人の列が。前夜祭を含めると、参加
者は2万人に上った。
未来部のさわやかなダンス。女子部の華麗な舞踊。男子部の情熱あふれる組み体操。そして長編詩「青年よ 21
世紀の広布の山を登れ」の暗唱――。
多数の来賓と共に観賞した先生は、熱演に喝采を送り、「頑張ったね。素晴らしい文化祭でした」と出演者らを称
賛。申さんの胸にも感動が込み上げた。
ファッションデザインノ4コンサルタントとして活躍する申さんの誇り。それは、仕事と学会活動を徹してやり抜
いてきたことだ。そこには”世界にとって必要な香港”と”その発展をリードするSGI”を皆で築きたいという強い
思いがあった。
この以前の先生との出会いを機縁に、アメリカの大学へ留学。貿易会社勤務を経て独立し、海外にも足を運びなが
ら、長きにわたりファッション業界で奮闘してきた。後の文化祭では衣装デザインを手掛けたことも。その中で、
広布のために自由自在に活動できる境涯を開いてきた。
香港SGIが取り組んだ展示運動では、著名な芸術家などへの渉外活動を展開。師から学んだ人間外交で、多くの
味方をつくった。
行学二道の人材を育む教学部長でもある。「社会で戦うほどに多くのチャンスが訪れ、自身を高めてくることがで
きました。若き日から見守り、薫陶してくださった先生に感謝し、弘教と人材の拡大へ走り続けます!」
親子で創大へ
池田先生の滞在中、文化祭を大成功に導いた各種グループに、名称がつけられた。
男子部の宇宙音楽隊、金輝合唱団、金鷹体操隊、女子部の天虹舞踏グループ、紫荊鼓笛隊、壮年部の地涌合唱団、
婦人部の白蘭合唱団などである。
現在は芸術部などが加わり、13団体からなる「文化本部」に。社会に根差した文化運動を多角的に推進する。
紫荊鼓笛隊の隊長として、先生の前で演技を披露したのは、麦蔡恵玉さん(支部副婦人部長)。指揮棒を振り、
メンバーと共に青春の誉れの原点を刻んだ。
幼い頃、両親と入会。日本語を学ぶために海を渡り、大阪で活動したことも。女子部時代を悔いなく戦い、やがて
創価大学10期生の麦嘉友と結婚する。
「晴れやかに 君の未来は香港に 希望の虹と われは待ちなむ」――創大卒業前に師から贈られた色紙を胸に、
嘉友さんは使命の天地を駆けた。
だがその後、嘉友さんは広布の途上で尊い生涯を終える。最愛の人を失った、深い悲しみ。麦さんを支えたのは、
香港に到着した先生と空港で交わした握手の温もりだった。
「夫との別れは、残された私たちの信心を深めてくれました。子どもたちもそう思っているはずです」
先生が嘉友さんに詠んだ和歌は家族の指針に。2人の子は、そろって創価大学を卒業。香港創価幼稚園の1期生で
ある長男・光一さんは、大手半導体メーカーで働きながら、男子部の部長を。シンガポール在住の次男・博俊さん
は、大手映画配給会社に勤める。
「夫の分まで、2人分の信心に励み、栄光の人生を飾っていきたい」。入会から50年がたち、麦さんは決意を新
たにしている。
原点を忘れない
文化祭の翌日には、第1回SGI香港総会が盛大に開催された。
席上、申宝来さんが青年部長に。男子部長に任命されたのは、黄徳明さん(支部長)である。「びっくりしました
が、持てる力を全て出し切って、責任を果たしていこうと、池田先生に固く誓ったのを覚えています」
先に入会した母に続き、病気を機に信心を始めた黄さん。腎臓を患い、結石を取り除く手術を控えていたが、題目
を唱え抜くと、驚きの結果が。「結石がなくなっています」と診断され、手術する必要がなくなったのだ。
初信の功徳で確信をつかみ、男子部の先輩の訪問激励によって、活動に参加するように。地道な信心を貫き、男子
部長就任後は部員増へ奔走。師弟直結の陣列を拡大していった。
転機は89年。事業が立ち行かなくなり、アパレル関連の仕事で南太平洋のフィジーへ。結婚直後でもあり、家庭
を守るために、信心の実証を示すために、懸命に祈り働いた。
家計も安定し、3年後に香港に戻ってからは玩具製造業に従事。社会の変化に伴い、かつて香港にあった工場は中
国本土に移っていた。そのため、多くの人々と同様、黄さんも月に2、3日ほどしか香港に帰れない日々が続いた。
それでも、時間があれば、同志のもとを訪れた。
苦労を繰り返した分だけ、分かったことがある。どんなに多忙であっても、挑戦し続ける中に人間革命があること。
そのために大切なのは、青年部時代に信心の原点をつくるということだ。
「私自身が成長し続けることで、一人でも多くのメンバーに信仰の歓喜を伝えていきたい」。思う存分学会活動で
きるようになった今、黄さんは一段と若々しく、広布の最前線を歩いている。
◇ ◆ ◇
「『97年以後』も、これまでの何倍も、にぎやかに、何倍も楽しく交流しよう。未来永遠、一緒に勝利の歴史を
つくろう!」
池田先生の激励行は同志に勇気を送り、社会に希望を届けた。
諸行事の合間には、各界の識者と意見交換を行っている。
香港政庁行政評議会のジョンシーユン元主席には「機会を見て、香港の市民の率直な心情を、ありのままに、中国
の首脳に、お伝えします」と約束。香港中文大学馬臨学長には「何があろうとも、香港に対する、また貴大学に対
する心は変わりません」と語った。
一民間人の立場で、中英両国の指導者と語らいを重ねてきた先生は、この半年後、周恩来総理夫人の鄧頴超政治協
商会議主席、胡耀邦総書記らと北京で再会(84年6月)。香港の繁栄に尽くすという中国の思いを、改めて確認
する。
「中英共同声明」が発表され、返還が正式に決まったのは、この数ケ月後であった。
後年、香港基本法の起草委員を務めた文豪・金庸氏は述べている。
「返還にあたって、文化面で、精神の次元で、民衆の幸福という観点で、最大の功績者が、池田先生ではないでし
ょうか」