第43回「SGIの日」記念提言㊤-4
2018年1月26日
一人の勇気が社会を動かす!――“公民権運動の母
”ローザ・パークスさんとの語らいでは、
教育の重要性や青年への期待が話題となった
(1993年1月、当時のアメリカ創価大学
ロサンゼルス・キャンパスで)
また、こうしたインフラの構築に投入される費用は年間で3兆ドル
に達し、世界全体の防衛費の年額(1兆7500億ドル)よりも多く、
その差は広がる傾向にあるというのです。
この状況を踏まえて、地政学の見直しを提唱するシンガポール国立大学のパラグ・カンナ上級研究員は、次のよう
に指摘しています(『「接続性」の地政学(上)』尼丁千津子・木村高子訳、原書房)。
「構築されたインフラの全体図が地図に記されていないために、国境線は、人が創造した地理を映し出すどんな手
段より勝っているような印象を受ける。だが、今日では真実はその逆である。国境線が重要な役割を果たすのはあ
くまでその場のみで、他の線のほうが重要な場合がはるかに多いのだ」と。
共通インフラの構築は、EU(欧州連合)のような地域にとどまらず、緊張を抱える地域でも見られ、その利用を
通じて互いに受ける恩恵が「自然の地理と政治的地理がそれぞれ抱えている問題点」を克服する契機にもなりうる
と強調しているのです。
国境線という「政治的な地理」の現実を踏まえつつも、共通インフラの果たす役割に着目し、「機能的な地理」の
姿を浮かび上がらせようとしたカンナ氏の試みに、私は、先に言及した牧口初代会長の『人生地理学』を貫く眼差
しと相通じるものを感じます。
地理への認識が人間や国家の行動に及ぼす影響を重視した牧口会長は、行動の基軸を「人道的競争」に置くこと、
すなわち、「その目的を利己主義にのみ置かずして、自己と共に他の生活をも保護し、増進せしめんとする」方法
を意識的に選び取ることを呼び掛けていたからです(前掲『牧口常三郎全集』第2巻、現代表記に改めた)。
国境線がどの国にとっても譲れないものだとしても、越境して結ばれる共通インフラの線が増えれば、それだけ国
と国との関係は豊かなものに変わっていく――。
こうした動きは、牧口会長が提唱した「人道的競争」への萌芽ともいえるものではないでしょうか。
牧口会長の思想の根幹には“価値は関係性から生じる”という哲学がありましたが、異なる存在を結ぶつながりを広
げることは、人権を巡る課題を前に進める上でも欠かせない要素であると私は考えます。マンデラ氏が、白人の看
守や看護師といった人々との個人的な結びつきを広げ、出獄後の政治活動の礎ともなった人間性に対する確信を深
めていったように、さまざまな差異があっても、互いの関係性をプラスの価値を生み出す方向へと転じることはで
きるからです。
世界各地で広がる排他主義の動き
“万人の尊厳”を説いた釈尊が常に留意を促していたのも、言葉による固定化がもたらす危険性に他なりませんでし
た。
「生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為に
よって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである」(『ブッダのことば』中村元
訳、岩波書店)と、人間の尊さは属性を示す言葉で左右されるものではないと訴えたのです。
仏法に、「厭離断九」という言葉があります。
仏と人間とを全く別の存在として立て分けてしまい、最極の生命状態(仏界)を得るためには、それ以外の生命状
態(九界)をすべて厭い、そこから離れて、断ち切る以外にないと考えることを指し、それを戒めた言葉です。
日蓮大聖人はこの点を踏まえて、「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげ(歎)くべきにあらざりけり我
等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(御書522ページ)と述べ、特定の人々の存在を根本から否定する
のは、他者の尊厳を傷つけるだけでなく、自分の尊厳の土台を突き崩すことになると訴えました。
これは仏法の生命論的な視座ですが、人間の尊厳に対して障壁を設けることの危険性は、現代の人権問題を考える
上でも看過してはならない点だと思えてなりません。
特定の人々を蔑み、遠ざけようとし、関係を持つことを嫌う排他主義が、世界各地で深刻な問題を引き起こしてい
るからです。
昨年の国連人権理事会でも、排他主義に関する二つの決議が採択されました。
宗教などの違いに基づく不寛容と闘うことを求めた決議と、外国人嫌悪の行為などを防止するために人種差別撤廃
条約の追加議定書の草案づくりを開始する決議です。
2年前に国連で採択されたニューヨーク宣言=注2=でも、「難民または移民を悪魔呼ばわりすることは、私たち
が深く関わってきた全人類に対する尊厳と平等の価値を心の底から損ねている」(国連広報センターのウェブサイ
ト)と警鐘が鳴らされていました。
もとより、自分が属する集団に愛着を感じるのは、自然な感情といえるものです。
また、自分が住む地域に他国から来た人々を迎え入れることに不安や戸惑いを感じるのも、やむを得ない面がある
かもしれません。
しかしそれが排他主義へと傾き、ヘイトスピーチのように憎悪や敵意をむき出しに差別をすることは人権侵害にな
ります。
フィルターバブルが引き起こす問題
特に近年、情報社会化が進み、他者とつながる可能性は拡大しているにもかかわらず、ネット空間を通じて増幅す
るのは、同じような考えを持つ人々との一体感ばかりという現象がみられることが懸念されます。
「フィルターバブル」と呼ばれるもので、インターネットで情報を探す際に、利用者の傾向を反映した情報が優先
的に表示され、他の情報が目に入りにくくなるため、知らず知らずのうちに特定のフィルターで選別された情報に
囲まれて、バブルの球体の膜に包まれてしまったような状態になることを指します。
深刻なのは、社会問題を巡る認識でも、その傾向が顕著になりつつあることです。
気になる社会問題があっても、目にするのは、自分の考えに近い主張や解説が載ったウェブサイトやSNS(イン
ターネット交流サイト)の内容になってしまいがちで、異なる意見は最初から遠ざけられ、吟味の対象となること
は稀だからです。
この問題に詳しいイーライ・パリサー氏は、「情報の共有が体験の共有を生む時代において、フィルターバブルは
我々を引き裂く遠心力となる」と注意を喚起しています。
物事を適切に判断するためには文脈を把握し、さまざまな方位に目を配ることが必要となるはずなのに、「フィル
ターバブルでは360度どころか、下手をすると1度しか認識できない可能性がある」と、視野の狭さがもたらす
悪影響に警鐘を鳴らしているのです(『フィルターバブル』井口耕二訳、早川書房を引用・参照)。
多様性の尊重に関する研究でも、社会で主流をなす集団の人々が、差別的な扱いを自分たちは受けずに済んでいる
現実をさほど意識しないままでいることが、それ以外の人々に「生きづらさ」を感じさせる状況を助長してきたと
指摘されています。
かつて、“公民権運動の母”と呼ばれるローザ・パークスさんとお会いした時(1993年1月)、語っておられた
言葉が忘れられません。
「私は悲しい出来事をいくつもいくつも体験してきました。人種差別が、法律のもとで堂々とまかり通り、自分も
含めて多くの人々が苦しむのを、何度も目の当たりにしています」
心の痛みをどれだけ強く感じようが、目に見える形で表さなければ、誰も気にとめようとはしない――。
あの歴史的なバス・ボイコット運動は、パークスさんの“不正義に対する明確な拒否”の姿勢が、多くの人々の胸に
突き刺さったからこそ、大きな波動を巻き起こしたのではないでしょうか。
歴史の教訓を青年に語り継ぐ
日本でも、中国や韓国など近隣諸国の人々への差別意識が根強くみられることは、極めて遺憾と言わざるを得ませ
ん。
近隣諸国との相互理解と信頼の構築を目指し、私が長年にわたって交流を深める中で友誼を結んできた一人に、韓
国の李寿成元首相がいます。
李元首相の父君は、日本が植民地支配をしていた時代に判事の仕事に就きましたが、韓服を着て出勤し、日本語を
話すことを強要されても、決して受け入れませんでした。そして、固有の名前を日本式に改める「創氏改名」を拒
否したために判事の職を追われ、弁護士の仕事を始めようとしても開業を許されなかったといいます。
この李元首相から伺った話を含め、戦前と戦時中に非道な扱いを受けた近隣諸国の人々の心の痛みを日本の青年た
ちに語り継がねばならないとの思いで、私はことあるごとに歴史の教訓を訴えてきました。
昨年10月、創価大学で講演した李元首相は、「どんなに優れた人であっても、他者に対して傲慢であってはなら
ない。また、ある民族が他の民族に対して、傲慢であってはならない」と呼び掛けましたが、日本で今なお続く差
別をなくすためにも、若い世代が胸に刻んでほしいと願わずにはいられません。
ともすれば差別は、多くの人にとって無関係のものと受け止められがちです。しかし、社会的なマイノリティー
(少数者)の立場に置かれてきた人々にとって、それは日常的に身に降りかかる現実なのです。
人権教育は、こうした差別を助長する“無意識の壁”の存在に目を向けさせ、日々の行動を見つめ直す契機となるも
のです。
私どもSGIが、人権教育の推進を通して力を入れてきたのも、エンパワーメント(内発的な力の開花)による一
人一人の尊厳の回復と、「多元的で誰も排除されない社会」を共に築くための意識啓発です。