第43回「SGIの日」記念提言㊤-2
2018年1月26日
池田SGI会長が開幕式に出席し、カナダのモントリオール大学
で行われた「現代世界の人権」展(1993年9月)。
「人権教育のための国連10年」を支援した同展は世界40都市
で開催された
また私は、40年前、国連の第1回軍縮特別総会に寄せて、核廃絶と核軍縮のための10項目提案を行い、第2回
の軍縮特別総会が開催された1982年にも提言をしました。
そして、翌83年から「SGIの日」記念提言の発表を開始し、これまで35年間にわたり、核兵器の禁止と廃絶
への道を開くための提案を重ねてきたのです。
なぜ私が、これほどまでに核問題の解決に力点を置いてきたのか。
それは、戸田会長が洞察したように、核兵器がこの世に存在する限り、世界の平和も一人一人の人権も“砂上の楼
閣”となりかねないからです。
SGIが核廃絶の運動を続ける中、交流を深めてきた団体の一つにパグウォッシュ会議があります。その会長を昨
年まで務めたジャヤンタ・ダナパラ氏も、核問題をはじめとする多くの地球的な課題に臨むには倫理的なコンパス
(羅針盤)が欠かせないと強調していました。
「倫理的な価値観という領域と、現実主義的な政治の世界は大きくかけ離れており、決して接することはないと広
く考えられているが、それは正しくない。国連のこれまでの成果は、倫理と政策の融合は可能であることを示して
おり、平和と人類の向上に貢献してきたのは、この融合なのである」(IDN―InDepthNews 2017
年1月23日配信)と。
今年で採択70周年を迎える世界人権宣言は、その嚆矢だったといえましょう。
そこで今回は、世界人権宣言の意義を踏まえつつ、地球的な課題に取り組む上で「倫理と政策の融合」を見いだす
ための鍵となる、一人一人の生命と尊厳に根差した「人権」の視座について論じたい。
ハンフリー博士の生い立ちと体験
第一の柱は、人権の礎が“同じ苦しみを味わわせない”との誓いにあることです。
国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、昨年、移民と難民を巡る問題を担当する特別代表のポストを新たに設
けました。
現在、移民の数は世界で2億5800万人に達し、難民の数も増加の一途をたどる中、こうした人々に対して、と
もすれば負担や脅威といったイメージばかりが先行し、排他的な風潮が強まっています。
特別代表に就任したルイーズ・アルブール氏は、「他のあらゆる人と同様、移民もその地位に関係なく、基本的人
権の尊重と保護を受ける必要があるということは、はっきりさせておかねばなりません」(国連広報センターのウ
ェブサイト)と訴えていますが、問題解決の土台に据えねばならない点だといえましょう。
20世紀の歴史が物語るように、2度に及ぶ世界大戦において異なる集団への蔑視や敵意が扇動され、多くの惨劇
が引き起こされてきたことを忘れてはならないからです。
国連創設の3年後(1948年12月)に採択された世界人権宣言は、こうした教訓に基づいて結実したものに他
なりませんでした。
移民と難民の人々に対する差別をはじめ、現代のさまざまな人権問題を解決するためには、今一度、世界人権宣言
の精神を想起し、確認し合うことが重要ではないでしょうか。
国連の初代人権部長としてその制定に尽力したジョン・ハンフリー博士と、以前(93年6月)、お会いしたこと
があります。
世界人権宣言の意義などについて語り合う中、深く胸に残ったのは、博士自身が直面してきた差別や体験の話でし
た。
カナダ出身の博士は幼い頃、両親を病気で亡くし、自らもひどい火傷を負って片腕を失う悲劇に見舞われます。
兄や姉とも離れて生活し、入学した寄宿学校では、その生い立ちのために、いじめや心ない扱いを受け続けました。
大学卒業後、結婚をした翌月に起きたのが世界恐慌で、博士自身は仕事を続けられたものの、いたる所で見かける
失業者の姿に胸が痛んでならなかったといいます。また、1930年代後半にヨーロッパで研究生活を送った時に
は、ファシズムによる抑圧を目の当たりにし、一人一人の権利を国際法によって守る必要性を痛感したのでした。
博士はある時、「世界人権宣言について誇りに思うことは、市民的、政治的権利とともに経済的、社会的、文化的
権利を入れることができたことです」と述懐していました。
こうした博士の生い立ちや体験が、世界人権宣言の草案をまとめる際に大きく影響したのではないかと思えてなり
ません。
実のところ、博士の功績は、20年に及ぶ国連の人権部長の仕事を終えた後も、長らく知られないままの状態が続
きました。
博士が私に強調しておられたように、世界人権宣言はあくまで「多くの人の共同作業」で制定されたものであり、
「“作者不明”であったところに、この宣言が、いくらかの威信と重要性をもてた理由があった」というのが、博士
の考えだったからです。
それでも私は、博士から草案の復刻版をいただいた時、手書きの文字の一つ一つに、誰もが尊厳をもって生きられ
る社会の実現を願う“種蒔く人の祈り”が込められているのを感じてなりませんでした。
その心情を多くの人に伝えたいとの思いで、SGIでは「現代世界の人権」展などで、草案の復刻版を紹介してき
たのです。
海外初の開催となったカナダのモントリオールでの同展の開幕式(93年9月)で、博士との再会を果たし、世界
人権宣言の精神を未来に語り継ぐことを誓った時の思い出は、今も忘れることはできません。
獄中で培った確信
世界人権宣言が採択された48年は、一方で、南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離)政策が始まった年
でもありました。
その撤廃を目指し、自らが受けた差別への怒りや悲しみを乗り越えながら前に進み続けたのがネルソン・マンデラ
元大統領です。
初めてお会いしたのは、マンデラ氏が獄中生活から釈放された8カ月後(90年10月)でした。
青年時代に解放運動に立ち上がった思いを、マンデラ氏は自伝にこう綴っています(『自由への長い道(上)』東
江一紀訳、NHK出版)。
「何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らないできごとが絶え間なく積み重ねられて、怒りが、反抗心
が、同胞を閉じ込めている制度と闘おうという情熱が、自分のなかに育ってきた」と。
投獄によってさらに過酷な扱いを受けたものの、氏の心が憎しみに覆われることはありませんでした。
どんなに辛い時でも、看守が時折のぞかせる「人間性のかけら」を思い起こし、心を持ちこたえさせてきたからで
す。
すべての白人が黒人を心底憎んでいるわけではないと感じたマンデラ氏は、看守たちが話すアフリカーンス語を習
得し、自ら話しかけることで相手の心を解きほぐしていきました。
横暴で高圧的だった所長でさえ、転任で刑務所を離れる時には、マンデラ氏に初めて人間味のある言葉をかけまし
た。
その思いがけない経験を経て、所長が続けてきた冷酷な言動も、突き詰めていけば、アパルトヘイトという「非人
間的な制度に押しつけられたもの」だったのではないかとの思いに行き着いたのです。
27年半、実に1万日に及ぶ獄中生活を通し、「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消えるこ
とはない」(『自由への長い道(下)』)との揺るぎない確信を培ったマンデラ氏は、出獄後、大統領への就任を
果たし、「黒人も白人も含めたすべての人々」の生命と尊厳を守るための行動を起こしていきました。
大勢の黒人が白人のグループに殺害され、黒人の間で怒りが渦巻いた時にも、型通りの言葉だけで融和を図ろうと
はしませんでした。
ある演説の途中でマンデラ氏は、突然、後方にいた白人の女性を呼んで演台に迎え、笑みをたたえながら“刑務所で
病気になった時に看病してくれた人です”と紹介しました。
問題は人種の違いではなく人間の心にある――その信念を物語る場面を目にした聴衆の雰囲気は一変し、復讐を求
める声も次第に収まっていったのです。
この振る舞いは、自身を縛り続けてきた“非人間性の鎖”の重さが身に染みていたからこそ表れたものではないでし
ょうか。
法華経に描かれた不軽菩薩の実践
私どもが信奉する仏法にも、マンデラ氏が抱いた「人の善良さという炎は、見えなくなることはあっても、消える
ことはない」との確信と響き合う行動を、どこまでも貫いた菩薩の姿が説かれています。
釈尊の教えの精髄である法華経に描かれている不軽菩薩の行動です。
不軽菩薩は周囲から軽んじられても、“自分は絶対に誰も軽んじない”との誓いのままに、出会った人々に最大の敬
意を示す礼拝を続けました。
悪口を言われ、石を投げつけられても、“あなたは必ず仏になることができます”と声をかけることをやめなかった。
マンデラ氏が獄中でひどい仕打ちを受けても、人間性に対する信頼を最後まで曇らせなかったように、不軽菩薩は
どれほど周囲から非難されても、相手に尊極の生命が内在していることを信じ抜いたのです。
“万人の尊厳”を説いた法華経に基づき、13世紀の日本で仏法を弘めた日蓮大聖人は、その行動に法華経の精神は
凝縮しているとし、「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」
(御書1174ページ)と述べました。
「仏」である釈尊の出世の本懐が、「人間」としての振る舞いにあったとは、逆説的に聞こえるかもしれません。
しかし、釈尊が人々の心に希望を灯したのは、超越的な力によるものではなく、目の前の人が苦しんでいる状態を
何とかしたいという人間性の発露に他なりませんでした。
重い病気で寝たきりになった人に対し、周りが手をこまねいている時に、見過ごすことはできないと体を洗って励
ましたのが釈尊であり、視力を失った人が衣服のほころびを直したいと思い、“誰か針に糸を通してもらえないだろ
うか”とつぶやいた時、真っ先に声をかけて、手を差し伸べたのも釈尊でした。