2018年1月18日
「幸せになってください」「いつまでもお元気で」
――記念撮影会の会場に集った同志を激励。
旅の疲れも見せず、卓球大会にも出場し、共に汗を流した
(1974年1月、九龍で)
世界広布は今、池田先生と同志の絆によって、192カ国・地域へ
と広がった。あの国にも、この地にも、先生の励ましの足跡が刻ま
れ、師との原点を胸に「友情の虹」「幸福の虹」「平和の虹」を懸けてきた、誇り高き地涌の友がいる。本連載で
は、世界宗教として、大いなる飛翔を果たしたSGIの師弟のドラマを紹介する。
戸田先生は詠んだ。
「雲の井に 月こそ見んと 願いてし アジアの民に 日(ひかり)をぞ送らん」
日蓮大聖人の未来記である「仏法西還」、そして恩師が遺命された「東洋広布」は、香港から始まった。
日中の友好の橋を架ける初の中国訪問も、出発地は香港だった。
今や58ケ国・地域の194大学と学術交流協定を結んでいる創価大学の第1号の締結校は、香港中文大学。
海外初の創価幼稚園の開園も香港である。
まさに名実ともに、アジアにおける平和・文化・教育運動の起点となった香港。先生の訪問は20度に及ぶ。
団結は拡大の力
諸天も寿ぐ快晴に包まれた1961年1月28日。池田先生を乗せた飛行機は香港に向かって離陸した。
この前年、第3代会長に就任した先生は、北・南米指導へ。世界広布のうねりが高まる中、次なる焦点と定めたの
がアジアだった。
約5時間後、九龍(カオルーン)半島の啓徳(カイタック)空港に降り立つと、送迎デッキから手を振る同志の姿
が。当時、現地の会員は10世帯ほどだった。
その夜。香港で初めての座談会が先生一行を迎えて行われ、アジア第1号となる地区が結成された。
集ったのは十数人。日本で入会はしたが、組織もなく、大半が自分なりの信心を実践してきたメンバーばかりだっ
た。勤行を「キンコウ」と言い間違える人がいたほどである。
先生は同志の質問に答えつつ、信心の要諦を示していった。
「人間が成長していくには、独りぼっちではなく、互いに切磋琢磨していくことです。特に信心の世界にあっては、
常に連携を取り合い、励まし合っていける同志が大事になります」「皆で力を合わせれば、大きな力になる。団結
の力は足し算ではなく、掛け算なんです」
学会は、どこまでも励ましの世界である。そして、真の団結は、何倍、何十倍という勢いを生む――先生の指導は
明快だった。
終了後、ホテルに戻った先生は、遅くまで「大白蓮華」の巻頭言の執筆に当たった。タイトルは「東洋広布」であ
る。
翌日には、次の目的地であるセイロン(現・スリランカ)へ。以降、インド、ビルマ(現・ミャンマー)、タイ、
カンボジアを歴訪し、2月13日には再び香港に戻った。
歴史的なアジア平和旅は、香港に始まり、香港に帰着した。
香港はアジア広布の「原点」となり、「玄関」ともなっていったのである。
強く生きるのだ
1年後、香港は倍増以上の発展を見る。中東からの帰途に立ち寄った先生のもとには、40人ほどの友が駆け付け
た(62年2月)。
日本に帰国するまでわずかな滞在だったが、空港内の一室で香港支部の結成が発表されると、皆の喜びは最高潮に
達した。
さらに63年1月、64年5月と10月にも、先生は香港を訪れている。この時、案内役を務めたのは、初代理事
長の故・周徳光さん。草創の忘れ得ぬ功労者の一人である。その歴史は、小説『新・人間革命』第7巻「早春」の
章などに詳しい。
周さんは九州出身。若き日に日本から中国に渡り、戦後に移り住んだ香港で信心を始めた。貿易会社を営む多忙な
日々の中、妻の周余凧珍さん(香港婦人部最高参与)と二人三脚で香港広布に奔走。東南アジアに点在する同志の
激励にも献身してきた。
「いつも両親から信心の素晴らしさ、先生の偉大さを聞かされてきました。一家で先生とお会いした思い出は生涯
の宝です」。そう語るのは長女の呉周鳳?さん(本部副婦人部長)。父に続いて家族と共に入会し、先生と初めて
出会ったのは、10代の時だった。
以来、一貫して学会の庭で成長し、まだ少なかった女子部の同志と仲良く信心に励んできた。
次に先生が香港に足を運んだのは、74年である。それを見届けた父は、天寿を全うし、霊山へと旅立った。
後年、先生は周さん宅を訪れ、追善の勤行を。「母子して 諸仏に守らる 金の家」と色紙に揮毫し、居合わせた
家族にまごころからの励ましを送った。
「後に残った皆さんが強盛に信心を貫き、幸せになることです。強く生きることです。じっと見守ってくれていま
すよ」
これが、一家の永遠の指針となった。
鳳?さんは結婚後、2人の子を育てながら広布の舞台で奮闘。夫の仕事でイギリスに駐在した際には、自家用車が
横転する大事故に遭ったが、不思議と命は守られた。だからこそ感謝を忘れず、信仰体験を語りながら新たな人材
育成に注力する日々だ。
弟の洲崎周一さんをはじめ、2人の妹は創価大学などを卒業し,SGI公認通訳として世界広布の一翼を担ってい
る。
皆と良き友人に
6度目の訪問となった74年1月下旬。5泊6日の滞在中には、幾つもの行事が予定されていた。
初日の深夜まで友を励まし続けた先生は、2日目となる27日、約1000人との記念撮影会に出席。会場に着く
や、この瞬間を待ち望んでいた同志の輪の中へ飛び込んだ。一人一人に声を掛け、握手を交わしていく。整理役員
や受付の女子部員のところへも。
鄭彩容(ゼンチョイヨン)さんも役員として激励を受けた。「先生は私に『皆と良き友人になりなさい』と言われ
ました。誰とでも仲良くしよう。香港中に友情を広げよう――この誓いは今も全く変わることはありません」
鄭さんは、この出会いの5年前に入会。まず母が新人を始め、父の大病が回復したことがきっかけで、信仰への確
信を深めた。
洋服製造会社で働く中、77年に香港女子部長に就任。部員一人一人と良き友人となり、師弟の道を真っすぐに歩
んできた。
香港副婦人部長として拡大の最前線を駆けていた3年前、ステージ3の卵巣がんに。激痛が体を襲った。御本尊の
前に座るが、思うように声も出せない。何度も心がくじけそうになった。
そんな鄭さんを支え続けたのは、青春時代の誓いだった。
”必ず宿命転換してみせる!”と、痛みに耐えながら、必死に唱題を重ねた。すると治療が功を奏し、病状は徐々に
好転。家族や同志の祈りもあり、以前のように元気に活動できるまでになった。
「病気のおかげで、苦難に負けない信心の大切さを改めて学びました。香港に仏法を弘めてくださった先生と共に、
いつまでも健康で、充実した人生を生き抜きます!」
――74年までの10年間で、香港は大きく飛躍を遂げた。
途中、根強い反日感情から”日本から来た宗教”という、マスコミによる悪意の誹謗中傷もあったが、同志は微動だ
にしなかった。むしろ、良き市民として社会に貢献し、学会を取り巻く環境を変えていった。
毎月毎年、メンバーは増加し続け、支部から総支部、本部へと発展。妙法の功徳と確信が香港中に満ちていった。
機関紙「黎明聖報」や、香港会館も誕生している。
10年ぶりとなった先生の香港訪問は、広布の盤石な基盤を築く中で実現した。地元4紙は写真入りで先生の到着
を報じ、歓迎の意を表明したのである。