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〈明日を求めて 池田先生の対話録Ⅱ〉

 

第46回 モスクワ児童音楽劇場 ナターリヤ・サーツ総裁

20171221

 

  モスクワ児童音楽劇場のサーツ総裁との初の出会い。

  劇場を視察し、子どもたちの夢を育む音楽について

  意見を交わした。

  子どもたちが池田先生を慕う様子に、総裁は“劇場に

  太陽が入ってきたようでした”と

                 (1981年5月10日)

 

「世界で今、最高の女性は誰かと問われたら、私は、ためらいなく、

児童芸術の“母”であり“大統領”であるサーツ総裁を、その一人にまず挙げたい」

1989年5月15日、池田先生がナターリヤ・サーツ総裁を東京の聖教新聞本社に迎えた。

「池田先生との出会いを、私は今も感動とともに思い出します。モスクワの私たちの劇場に、池田先生は素晴らし

い文化の薫りを運んでくださった」

弾むような足取りに、朗々と響く声。身ぶり手ぶりを大きく交えて再会の喜びを伝える姿は、86歳とはとても思

えなかった。

サーツ総裁は、世界で初めて、子どものためのオペラ劇場であるモスクワ児童音楽劇場を創設。池田先生との最初

の出会いは81年5月10日、先生ご夫妻が同劇場を訪問した折のことだった。

サーツ総裁は、先生と香峯子夫人の間に入って2人と腕を組み、自ら劇場を案内。この時、ちょっとしたハプニン

グが起こった。

先生は劇場にいた子どもたちに声を掛け、日本のおもちゃをプレゼント。すると子どもたちは、おもちゃを手に夫

妻の後に続いた。

思い思いにおもちゃを鳴らす子どもたち。その人数はだんだんと増え、やがてにぎやかな”子ども音楽隊”が出来上

がったのである。

「あの時は、子どもたちが本当に喜んで、池田先生の胸に飛び込んでいかんばかりでした」

いつもユーモアを絶やさないサーツ総裁が、ある時、真剣なまなざしで言った。

「池田先生、私はただ一筋に、子どもたちへの希望を贈るためだけに生きてきました。『21世紀への懸け橋にな

りたい』と思って生き抜いてきました。先生も同じです。私は、人生の終わりになって、先生と知り合えたことに

感謝します」

年を重ねてなお、自らの夢を生き生きと語るサーツ総裁。だが、その半生は苦難の連続だった。

ちちは、音楽家のイリヤ・サーツ氏。モスクワ芸術座でメーテルリンクの童話の初演曲を手掛けるなど、その芸術

性は同時代のアレクセイ・トリストイやストラビンスキーらから高く評価されていたが、総裁が9歳の時に父は亡

くなってしまう。

総裁は12歳からピアノを教え、奨学金と合わせて家族の生活費を捻出。その2年後には、ロシア革命(1917

年)が起きた。

学校は閉鎖され、荒れ果てた町では、はだしの子どもたちが行く当てもなくさまよっていた。

サーツ総裁はモスクワ市の演劇音楽局に就職し、たった一人で児童演劇課を立ち上げる。

「子どもたちには、この世で一番いいものを、大人のため以上の本物の、一番美しいものを贈るべきです」

「『子どもだまし』の、薄めたような芸術ではダメなんです」と、支援者を探し歩いた。

作曲家プロコフィエフは、連帯の意を示し、有名な「ピーターと狼」を総裁に作り贈っている。

粘り強い努力が実を結び、1936年、常設の「中央児童劇場」を開設することができた。物理学者のアインシュ

タインをはじめ、世界の識者が絶賛する”子どもたちの楽園”が完成したのだ。

だが、その喜びもつかの間、翌37年に通商大臣だった夫のヴェイツェル氏が逮捕される。

清廉潔白で知られていた夫は、スターリンの粛清により、”人民の敵”との汚名を着せられたのだ。

さらにサーツ総裁も「国家反逆罪」という無実の罪に問われ、シベリア収容所に5年の流刑。

氷点下30度の酷寒である。愛する家族とも、児童劇場とも引き離され、総裁の栗色の髪は、一夜にして真っ白に

変わり果てた。

投獄された刑務所には、無実の罪でとらわれた女性が数人いた。悲嘆に暮れる姿を見つめ、総裁は考えた。「皆が

生き抜いていけるよう助けなければ」「人間は一人きりで悲しんではいけない」と。

総裁は「一人芝居」で皆を励ました。シベリアの収容所では、囚人の個性を生かし、芸術サークルを立ち上げる。

その劇は評判を呼び、各地の収容所を公演して回るほどになった。

「どんな時にも、祖国、人生への希望と信念を失ってはならない。困難、苦しみを克服しゆく勇気を失ってはなら

ない――その事を強く信じていました」

牢獄を出た総裁は、夫が銃殺されたこと、母が戦争の犠牲になったこと、息子が出征し、娘が孤児院に収容されて

いることを知る。だが再び、子どもたちのために音楽の普及に情熱を燃やし、20もの児童劇場を設立してきた。

「困難は次から次へと起きていった。でもそれは生きていることと表裏一体のものだし、いってみれば、当たり前

の状態なのだ。むしろ、困難こそ喜びであり、生きていることの証しなのかもしれない」

 ◇

90年7月29日、モスクワでの再会で、池田先生は総裁の生き方に触れ、言葉を継いだ。

「人生の悲しみに出あった時、立ち止まったり、右往左往するのではなく、その失望の淵から、常に、希望の歌を

つむぎ出してこられたサーツ総裁の姿は、人の心を打たずにはおきません」

「私は、こうした総裁の強き人生を、夢に行き、夢を実現させた勝利の力を、若き人々に伝えたいのです。総裁の

偉大な魂と先見性を後世に残したいのです」

総裁は後に語っている。

「私は、激しい苦しみを人生で味わってきました。だからこそ、池田先生の心が分かります。先生の信念が本物だ

と分かるんです」

厳冬を乗り越えた、母のドラマは示している。

いかなる苦境も必ず打開できること。そして悲哀を勝ち越えた先に、人生の深き喜びと崩れざる幸福があることを。

 

ナターリヤ・サーツ

モスクワ児童音楽劇場の創設者、総裁。役者。演出家。1903年生まれ

スタニスラフスキーに演出、ラフマニノフに音楽を学ぶ。

ロシア革命(1917年)の直後、モスクワ市の演劇音楽局に勤務し、児童演劇課を開設。

1936年に中央児童劇場を設立する。夫のヴェイツェル氏がスターリンの粛清によって銃殺され、

”人民の敵の妻”として、シベリアの収容所で5年間、投獄。18年にわたって、自由な活動を制限された。

その後、児童劇場の創設など子どものための芸術活動に一貫して尽力。

池田先生との出会いは7度。モスクワ児童音楽劇場は民音の招へいで2度の来日公演を行っている。

1993年12月、90歳で逝去。

 

 

 

 

 

 

 

 


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