2017年11月11日
津波被害に遭った原町区沿岸部の市有地で、
設置が進められるソーラーパネル。
市は震災の翌年、「南相馬市再生可能エネルギー
推進ビジョン」を策定し、原子力から再生可能エネルギーへの
転換を進める
毎月11日を中心に、今この時の、東北の姿を紹介する本連載。
東日本大震災から6年8カ月となる今回は、福島県南相馬市の原点支部を訪ねた。
南相馬市は、いわき市と宮城県仙台市のほぼ中間に位置する。市の中央の原町区が原点支部の舞台。
市街地の大栄地区と、太平洋に面した桜井地区、日の出地区の3地区から成る。
地震・津波に襲われ、原発事故の影響を受けた同市。防潮堤を乗り越えた津波で、3割以上の農地が流失・冠水し
た。
市は、南部の小高区が福島第1原発から20キロ圏内、原町地区が20~30キロ圏内に入る。震災直後、30キ
ロ圏内への物流が止まり、ガソリン不足や、医療機関・小売店の閉鎖によって、多くの人が市外への避難を余儀な
くされた。
現在、海岸沿いは堤防の整備が進む。震災前、サーフィンの世界大会が開かれたこともある北泉海岸では一昨年、
震災後初となる全国規模の大会が開かれた。避難した人の多くが戻ってきており、新しい住宅が次々と建っている。
一方、仮設住宅の供与は、2年後の3月で終了する予定で、“その後”の選択を迫られる人もいる。
高城洋子さん(支部婦人部長)は、地区婦人部長と共に、「“決して一人にしない”との思いで、訪問激励を重ねて
きました」と。
郡山市や会津若松市などへの非難を経て原町区の自宅に戻り、2012年、支部婦人部長に。自宅を改装し、会場
に提供してきた。
“皆で池田先生の指針を学び、元気になっていきたい”と婦人部のグループ単位の集いを開始した。毎月集まって小
説『新・人間革命』を学習。感想や近況を語り合った。
そうした中で、一人一人が少しずつ新生の歩みを刻んできた。
病気と闘う、ある婦人部のメンバーは昨年、同じ病で苦しむ友人に弘教を。津波で息子を失った婦人は、ひたむき
に学会活動に励む中で、その姿を見ていた娘が発心。9月の教学部初級試験に合格した。「心の中では、いろいろ
ある。でも広布の目標を目指しながら、みんなが一歩ずつ強くなってきたと思います」(高城さん)
本年5月に支部長に就いた岩井克則さんは「とにかく皆さんのことを知りたい、そう思って支部の同志を回ってい
ます。亡くなられた方の分まで皆で懸命に生きたい」と語る。
支部内では、90歳の壮年部員が初級試験に合格。座談会にも初めて参加し、皆が喜びに沸いた。
青年部も元気だ。18歳の女子部員は、友人への対話に朗らかに挑戦。浪江町から転入してきた男子部員は一昨年、
学会の主張大会で郷里の復興への誓いを代表で述べた。
「わが支部では、皆が仲良く団結し、聖教新聞の購読推進にも全力で挑戦しています。共に学会活動していくこと
が、皆の”生きる糧”になっていくのではないでしょうか」(岩井さん)
伏見実さん(地区幹事)
ラーメン店を経営して、来年で30年になります。震災で、消防団だった長女の夫が津波にのまれました。
長女と、遺体安置所に毎朝毎晩通いました。まだ見つかっていません。
震災後、私はとにかく題目をあげるようになりました。それが一番の功徳です。若者が減っているように感じるし、
”復興は本当に進んでんのか”って思う時もあるけども、自分を忘れずに、信心根本に進みます。お客さんから「こ
こで力もらってんだ」「いつまでも続けてくれよ」なんて言われて、うれしいんだ。今、66歳。定年の世代だけ
ど、”俺はまだまだだぞ、こっから花さかせてやっぺ”って思ってます。池田先生から薫陶されてきたかんな。
水野千恵子さん(婦人部員)
故郷の浪江町から、親戚のいる東京の立川市まで、家族が、車1台で着のみ着のまま避難して、あれから6年もた
ったんだな。
立川の同志の皆さんに本当にお世話になりました。去年の9月にこの復興公営住宅に来ました。料理が好きで、よ
く団地の方に振る舞ってんの。あと、踊りのグループに入ったり、手芸の得意なおばあちゃんから教わったり。
何でも興味をもつこと。チャレンジすること。どこにいたって同じ。学会で培ってきたことです。
(故郷の復興は)やっぱり時間がたたないとな。すぐには解決できないから。誰かのせいにするのでなくて、皆が
仲良くしていくことが復興の第一かな。
岡田和子さん(婦人部本部長)
震災後の混乱で、支部内の聖教新聞の配達が止まりました。
しばらくして再開されると、配達員だった私は、”池田先生がこんなにも東北に、福島に励ましを送ってくださっ
ている。これを見たら、みんなきっと立ち上がってくれる”と、一軒一軒にに届けました。
13年前に主人が亡くなり、今は1人暮らしです。弱気になるときもあります。でも会合に出ると、”共に戦う皆
さんがいる”と勇気をもらいます。震災後、新しく会合に参加されるようになった方が多くいます。全世界の同志、
池田先生・奥さまからの激励に感謝の気持ちでいっぱいです。心の復興は間違いなく進んでいます。
佐藤順子さん(副白ゆり長)
次男の中学の卒業式当日、震災が起きました。海の近くの自宅は、1階が津波の被害を受け、福島市へ避難しまし
た。福島平和会館では、同志の皆さんに本当によくしてもらいました。次男が福島市内の高校に通うことになり、
3年間同市で暮らしました。
震災時、中学3年だった次男は来春の就職が決まりました。4人の子どもたちは、6年分、成長しています。
今も気持ちの浮き沈みはありますが、自分らしく、学会活動をやっていきたい。これからも前進していきます。
山形県を拠点とする当社は、祖父が創業し」、本年90周年を迎えました。
私は山形商工会議所の副会頭も務めていますが、会社経営に携わるようになったのは49歳の時です。それまでは
専業主婦でした。
当時、横浜市で暮らしいましたが、社長を長年務めてきた母の体を心配した会社の役員から山形に戻ってきてほし
いと要請があったのです。夫の後押しを受け、母を支えたい一心で帰郷しました。
必死に経営を勉強して、7年後の2003年(平成15年)、社長に就任。経営の素人だった私は社員たちを信じ
抜こうと決めました。
幾度も不況の波に襲われましたが、”社員は必ず乗り越えてくれる”との信頼を強くし、自分の思いを社員に直接伝
えていきました。
皆と心一つに挑戦した結果、毎年、黒字経営を達成することができました。
「人を信じる」ことが前進の力になったのだと思います。信頼は、つながりを広げ、価値を生み出していきます。
私が会長を務める「みやぎ・やまがた女性交流機構」での取り組みでも、そのことを実感しました。
昨年、福島の方にも参加していただき、さまざまな分野で活躍する3県の女性の交流会を仙台で開催。風評被害の
払拭に役立てばと思い、福島の食材を使ったランチ交流も行いました。
その時、ホテルが用意してくれた料理に、福島の「あんぽ柿」をアレンジした「あんぽ柿タルト」があり、好評で
した。すると福島の方々がそれを広める運動を始めました。仙台のホテルや福島の商工会議所、農協など多くの人
が協力し合い、ついに商品化が実現。次々と人がつながり、大きな価値が生まれていったのです。
その過程の底流にあるものは、人を信じる東北人の実直さだと思います。厳しい冬を越えるために、互いを信じ、
助け合ってきた精神が東北には息づいています。その心こそ東北の力であり、誇りです。
こうした人間をたたえ、東北に一貫して励ましを送ってくださっているのが、創価学会の池田先生です。
その人柄を私が初めて知ったのは、義父(作家・井上靖氏)と池田先生の交流を通してでした。
1975年(昭和50年)春、2人は1年間にわたる往復書簡を始められました(『四季の雁書』)。特に印象的
だったのは、往復書簡を終えた76年の秋、義父が文化勲章を受章した時のことです。
井上家に立派な松の盆栽が届きました。池田先生からのお祝いでした。義父と義母はリビングから真っすぐに見え
る、庭の一番いい場所に地植えして、毎日眺めていました。
当時の模様を池田先生は小説『新・人間革命』第22巻につづられています。そこでは、69年末ごろに起こった
”言論問題”にも触れられています。
当時、義父は日本文芸家協会の理事長を務めていました。一部の作家から「学会に抗議声明を」との意見が寄せら
れましたが、義父は毅然として受け入れませんでした。
元新聞記者で、作家だった義父の「人を見る目」は確かでした。世界平和のために命懸けで行動される池田先生の
ことを、義父は心から信頼し、尊敬していたのだと思います。
池田先生のお心がよく表れていると私が感じる言葉があります。75年1月26日の創価学会インタナショナル
(SGI)発足時のスピーチです。
「皆さん方は、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔い
て、その尊い一生を終わってください。私もそうします」
池田先生のおっしゃる生き方で一生を終えたら、どんなに素晴らしいでしょう。この言葉を胸に、私も東北の発展、
女性が輝く社会の構築のために尽力していきます。
いのうえ・ゆみこ 1947年生まれ。山形県出身。清泉女子大学を卒業して2年後、作家・井上靖氏の次男で大手広告代理店に勤務 していた夫と結婚。専業主婦として2人の子どもを社会に送り出した後、1996年に高島電機株式会社取締役に。 常務、社長を経て、2011年、代表取締役会長に就任。山形商工会議所副会頭など兼職多数。