2017年11月8日
「日光三名瀑(ばく)」の
一つである
「霧降滝(きりふりのたき)」
日本の紅葉は、なぜ美しいのか。それは、色彩が豊かだから、
という説がある。赤、橙、黄、緑――多色の木々が織りなす
風景に、人は魅了されるのだ、と。
紅葉で知られる、栃木県の日光市(日光県)を訪ねた。
JR宇都宮駅では、日光線だけが案内板もプラットホームも、焦げ茶色の“特別仕様”。電車内にはあちこちに、
談笑しながら地図を広げる人がいる。
地元の住民は、紅葉も観光客も毎年の見慣れた光景だと語る。日光県のメンバーにとって、日光とは、どんな地
なのか。そんな思いで、一人一人に聞いてみた。
「自分の人生を、色に例えるなら?」
◇ ◇ ◇
「創価班だから青、と言いたいですが(笑い)、紅葉でいうなら葉陰の、茶色ですかね。目立たなくても周りを
支える、という意味で」(木村和宏さん、県男子部書記長)
外国人客も多く訪れるテーマパークで、イベント運営や、広報の担当を務める。
神奈川県の出身。大学4年の時、人を感動させる仕事がしたいと、現在の職場に内定を得た。
「でも、その思いとは裏腹に、私は子どもの頃から自分の存在意義を感じられず、つらいことがあると逃げるば
かりでした」
そんな自身を変えたいと、卒業直前の2002年3月に入会した。
移住した日光は、進学や就職などで、地元を離れていく若者が多い地域だった。木村さんは、地元の学会員たち
に大歓迎された。さらには、何かと頼ってもらえるようになった。
日光市内の北部で、見頃を迎えている紅葉
「メンバーの訪問激励から座談会の司会、ちょっとした力仕事まで
何でもお願いされるようになって(笑い)。
そんな中で人と堂々と話せるようになり、自信を持てるようになっていきました」(木村和宏さん)
仕事でイベント運営や広報を任されるようになったのも、そうした変化の実証だろう。
「今は、この地の青年部として、仕事も信心も負けるわけにはいかないという思いです」
日光を、国内外に広く知られる”世界の日光”に—―そんな思いを、静かに胸中に燃やす。
◇ ◇ ◇
観光地の多い日光の、学会活動の在り方を、沼尾重夫県長、中村道代県婦人部長に聞いた。
「例えば鬼怒川など、温泉街で働く方が多い地域では、夜の会合はできません。座談会は、旅館などが休憩時間に
入る、昼間にやるんです」
「でも会合に参加しにくい分、訪問激励などで心を結びながら、信心に励んでいますね」
そうしたメンバーと、市内各地で出会った。「自分を色で表すなら……赤ですね。ここで、学会の旗を掲げ続ける
決意に燃えていかねば、という意味で」(木下一幸さん、地区幹事)
中禅寺湖のほとりで、食事処を経営する。一昨年に亡くなった父・清さんから継いだ店だ。
清さんは終戦後、親戚を頼って東京からこの地に来た。焼きそばの屋台で、5人の子を養った。
1958年(昭和33年)に信心を始めた。
「私が中3の時、母が胆のうがんで亡くなり、それからは父が男手一つで育ててくれて」
旧習の深い地で、強盛に信心を貫く父を助けたいと、木下さんは中学卒業後、調理学校に進む。
20年前に屋台を終え、現在の店舗を構えた。手打ちそばをメニューに加えるなど、妻・美和子さん(地区副婦人
部長)と工夫を重ねてきた。
「こういう商売で、なかなか会合にも出られないけど」、支えてくれている人がいる。
「地区部長です。昔から、地元の青年団で一緒だった人で、よく会いに来てくれる。そのたび、この地に貢献する
生き方を決意し直すんです」
その人、大金謙治さんは近所のガソリンスタンドに勤めているという。
訪ねてみると、姿があった。あいさつし、木下さんが語っていたことを伝える。「なーんもよ」。大金さんは言葉
少なめにはにかんだ。
鬼怒川温泉駅の前で、土産物店の店長を務める壮年にも話を聞いた。
「紅葉で言えば、自分は”黄色の中にそっとある赤”でありたい。控え目に、皆をホッとさせられれば、と」(梅宮
一義さん、地区幹事)
高校を卒業後、鬼怒川温泉の大手ホテルで営業・販売を担ってきた。
「近年は団体客から個人客が中心になり、ここ数年で海外のお客さまが急激に増えたりと、変化が大きいですね」
だからこそ、学会で教わる「一人を大切に」という軸を持ち続けることが必要なのだという。
◇ ◇ ◇
「今は、黄色とか……そう、幸せの色ですね」(斎藤芙士子さん、地区副婦人部長)世界遺産である日光東照宮の
近くで、享保8年(1723年)から続く茶屋を営む。生まれは東京だという。
「でも、戦争で疎開した宮城から列車で東京に戻る途中、私だけ宇都宮の駅で降ろされた。要は”口減らし”だった
の。9歳の時でした」
日航の親戚の家に引き取られた。他に行き場はなく、何でも従うしか、生きる方法はなかった。縁談も、いつの間
にか。そうして結婚した夫の母が茶屋を営んでいた。
「そして、一緒に店に立ってた人が学会員で、私も入会して、人生が変わったんです」
客ではない、何でも話せる「友人」ができた。結婚15年目、夫が胃がんで亡くなった時、婦人部の先輩たちが変
わらず寄り添ってくれたことに、今も感謝する。
86年(昭和61年)9月14日、日光を訪問した池田先生は斎藤さんのことを聞き、激励の伝言を。
「先生は、私の今までの忍耐を、全て分かってくださっているんだと、本当にうれしかった」
人生の師匠と同志のおかげで、自分の人生を認められるようになった。店は今、メディアの取材が頻繁に入る、地
域の有名店になっている。
◇ ◇ ◇
「信心は真っ赤に燃え尽くしたい。学会創立100周年に、勝利の姿でいられるように」(平田満義さん、副本部
長)
日本最古のリゾートホテルとされる「日光金谷ホテル」で半世紀近く勤務。副支配人を務めた。心筋梗塞を機に、
38歳で入会。病を越えて、妻・宮子さん(県婦人部主事)と共に、日光の広布の草創を築いてきた。
夫妻には忘れられない”生涯の宝”がある。
第1次宗門事件の時。平田さんは、邪智の坊主に「私は池田先生と共に歩む!」と言い切り、夫妻でメンバーの
激励に歩いた。
さらに86年9月14日、ホテルが経営するベーカリーに、池田先生が立ち寄ったのだ。また、翌日に開催され
た第1回栃木県支部長会で、先生は平田さんのことに言及して激励した。
この会合のスピーチで先生は語っている。
「私どもは生涯、この無上道の妙法を師子吼しながら、自分らしく生きていけばよいのである。そこにのみ自ら
の生命に忠実に、自らの個性を光り輝かせながら、限りなき福徳の境涯を開き、成長していく方途がある」
◇ ◇ ◇
人間社会も紅葉と同じなのかもしれない。多様な色の人生が交差し、入り交じり、支え合う――その団結の中に
わが地にしかない彩で輝く、郷土広布の絵巻もある。