『法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ
教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』
(崇峻天皇御書、1174ページ)
(通解)
法華経の修行の肝心は不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういう
ことを意味するのであろうか。
教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。
日蓮仏法は、不軽菩薩の実践を模範とします。不軽菩薩は法華経不軽菩薩品第20に説か
れる、万人を決して軽んじなかった菩薩です。”どんな人にも仏性が具わる”と、自身に危
害を加えようとする人にも、礼拝行を続けました。
「相手を尊敬し幸福のために行動する」 ――言うは易く行うは難しです。たとえ自分が
蔑まれても、対話に挑む。そこには”必ず相手も変わる”という確信が光っています。
「人を敬う」ことは、仏法の上での修行の肝心なのです。
また、不軽の実践は”非暴力の神髄”ともいえます。杖や石など暴力で向かって来る相手に、
同じように暴力で応えるのではなく、粘り強く対応していく。それは”自分自身を律する
力”がなければ到底できません。
広宣流布は、その「人の振舞」を通して伸展していくのです。
『此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、
然どもいまだこりず候』
(曾屋殿御返事、1056ページ)
(通解)
この法門を日蓮が説くので、「忠言は耳に逆らう」というのが道理であるから、流罪にさ
れ、命の危険にも及んだのである。しかしながら、いまだ懲りてはいない。
「いまだ懲りず候」――何と、すさまじい御文でしょうか。池田先生は「日蓮大聖人の大
慈悲を一言に凝結されたお言葉」と語っています。
立正安国・広宣流布の闘争は、人間生命の変革の戦いであり、仏と魔との戦いゆえに、永
遠にやむことはありません。何があってもへこたれず、進み続けることが肝要です。
大聖人も生涯にわたり正義を叫び、諸宗の悪を責め抜いたゆえに「忠言耳に逆らう」の道
理の通り、数々の迫害を受けました。この御文には、”広布の前進を止めてはならない”と
の強い気迫があふれています。
この御本仏の心を継ぎ、現代社会に展開してきたのが創価三代の会長であり、私たち学会
員です。
さあ、「いまだこりず」の精神で、師と共に広布前進を!