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暁鐘 三十一

山本伸一は、この二十年間でイタリアの創価学会が目覚ましい発展を遂げたことが、何よ

りも嬉しかった。

会場に、役員として走り回る小柄な日本人壮年がいた。十四年前のイタリア訪問の折、ロ

ーマのホテルのエレベーターで励ました小島保夫である。当時、美術学校に通う学生であ

った。本部長の金光弘信の報告では、現在、ローマにあって、支部の中核の一人として皆

を守り、活躍しているという。

自分に光は当たらなくとも、新しい青年たちを励まし、黙々と皆のために尽くす存在は貴

重である。組織が強くなり、発展していくには、リーダーのもとに、そうした陰の力とな

る人が、どれだけいるかが決め手となる。広宣流布とは、結局は連携プレーであり、団結

のいかんにかかっている。

友好文化総会で伸一は、舞台に上がり、マイクを手にした。

「遠くアルプス山中に湧いた一滴一滴の水が、イタリアの地を流れ、ポー川の大河となっ

て、やがて、アドリア海へと至る。生命のルネサンスをめざす私どもの運動は、今は山中

を下り始めたばかりかもしれないが、やがて三十年後、五十年後には、滔々たる大河の流

れとなり、人類の新しき平和の潮流になるであろうことを宣言しておきます。

そのためには、人を頼むのではなく、自分こそが広布の責任者であると決めて、一人立つ

ことです。そして、日々、弛みなく、もう一歩、もう一歩と、全力で前進していく――こ

の小さな行動、小さな勝利の積み重ねこそが、歴史的な大勝利をもたらします」

伸一は、最後に、「いつも陽気に、そして祈りは真剣に。生活を大切に、体を大切に」と

指針を示し、「世界の青年と手に手を取り、世界平和のために雄々しき前進をお願いした

い」と述べて話を結んだ。

さらに、この夜、彼は、代表メンバーと懇談した。イタリアから宗教間対話の波を起こし

人間共和の新しい歴史を創ってほしいというのが、伸一の念願であった。

 

 

暁鐘 三十二

六月一日午前、山本伸一は宿舎のホテルでローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ会長と

会談した。会長は、前日にロンドンからローマの自宅に戻り、朝、ローマを発ち、自ら車

を運転して、四時間がかりで訪ねて来たのである。七十二歳にして疲れも見せず、精力的

に動く姿に、伸一は感嘆した。理想に向かい、信念をもって行動する人は若々しい。

二人の間では、対談集発刊の準備が進んでおり、この日も、指導者論などをテーマに語り

合い、対談集の構成等の検討も行われた。

ペッチェイ会長との会談を終えた伸一は、青年たちの代表と、ダンテの家へ向かった。

家は石造りの四階建てで、博物館になっており、外壁には彼の胸像が飾られていた。

ダンテは、ヨーロッパ中世イタリアの最高の哲人・詩人であった。一二六五年、フィレ

ツェに生まれ、三十歳の時、祖国のために尽くそうと政治家になり、頭角を現していく。

しかし、政争と嫉妬の渦に巻き込まれ、無実の罪で祖国を永久追放される。

彼の胸には、虚言、捏造、陰謀によって、正義が邪悪とされ、邪悪が正義とされる転倒を

正さねばならぬとの、怒りが燃えていた。そして、『神曲』の執筆に着手し、キリスト教

に基づく死後の世界を描き出していった。

そこでは、虚飾や偽りは、一切、通用せず、誰もが生前の行為によって厳たる報いを受け

る。人気を博した政治家も、著名な学者も、勲功の将軍も、聖職者たちも、皆、冷徹に容

赦なく裁かれ、地獄に落ちていく。

彼は死後の世界を描くことで、人は、いかに生きるべきかを突きつけたのである。

仏法は、三世を貫く生命の因果の理法である。この法に則り、日々、広宣流布という極善

の道を行くわれらは、三世永遠に、崩れざる幸福境涯を確立できることは間違いない。

日蓮大聖人は、「い(生)きてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり」

(御書一五〇四ページ)と仰せである。使命に生き、勇み戦う歓喜の境涯は永遠であり、

死して後もまた、われらの生命は歓喜に燃え輝く。

 

 

暁鐘 三十三

ダンテの『神曲』は、神の審判という尺度をもって、嫉妬、欺瞞、傲慢、暴力、噓、裏切

りなどがもたらす、死後の世界の無残な結果を描き出した。それは、いわば、人間を不幸

にする諸悪との闘争の書といえよう。  

人間は、いくら地位や、名声や、財産を得ても、「死」という問題が解決できなければ、

真実の生き方の確立も、幸福もない。現代の歪みは、人間にとって一番大事な「死」の問

題を避け、目先の欲望ばかりを追い求めてきた帰結といえよう。  

山本伸一は、人びとが仏法という永遠の生命の大法に目覚めてこそ、新しき生命のルネサ

ンスがあるとの確信を強くいだいていた。  

彼は、さらに青年たちと、フィレンツェ郊外にあるフィエーゾレの丘に足を運び、語らい

のひと時をもった。  

「仏法は、対話を重視しているんです。それは、宗教の権威、権力によって人を服従させ

ることとは、対極にあります。釈尊も対話によって法を説き、日蓮大聖人も対話を最重要

視されています。学会の座談会も、その精神を受け継いでいるんです。さあ、聞きたいこ

とがあれば、なんでも質問してください」  青年たちは、瞳を輝かせて伸一に尋ねた。

話は、ダンテ論、依正不二論、因果俱時論などに及んだ。質問が一段落すると、伸一は彼

方に広がる市街地を眺めながら語った。  

「やがて、ここから見える、たくさんの家々の窓に、妙法の灯がともる日が必ず来ます。

広宣流布の時は来ている。今こそ、皆が勇気をもって一人立つことです。  

戸田先生が第二代会長に就任された時、同志は三千人ほどにすぎなかった。しかし、師弟

共戦の使命に目覚めた青年たちが立ち上がり、七年を待たずに、学会は先生の生涯の願業

であった会員七十五万世帯を達成します。  

それは、果敢な対話の勝利でした。私たちには、仏法への大確信があった。皆が教学に励

み、理路整然と明快に法理を語っていった。そして、ほとばしる情熱があった。対話は心

を結び、時代を創る力となります」

 

 小説『新・人間革命』語句の解説  ◎依正不二など/依正不二とは、生命活動を営む主体である正報と、その身がよりどころとする環境・国土である依報が不二であること。  因果俱時とは、一念の生命に、因と果が同時に具足し、先後の別がないこと。また、仏因(九界)と仏果(仏界)とが、ともに衆生の一念にそなわることをいう。

 

 

暁鐘 三十四

六月二日午後、山本伸一は、フィレンツェ中央駅に駆けつけた百人ほどのメンバーに送

れ、ミラノ行きの列車に乗り込んだ。

窓の外には、名残惜しそうな、幾つもの青年たちの顔があった。彼は、“頼むよ。君たち

の時代だよ”との思いを込めて、目と目でガラス越しに無言の対話を交わした。

列車が動き出した。皆が盛んに手を振る。その目に涙が光る。伸一も手を振り続けた。

青年が立つ時、未来の扉は開かれる。

彼は、フィレンツェの街並みを見ながら、「生命の世紀」のルネサンスを告げる暁鐘が、

高らかに鳴り響くのを聞く思いがした。

この時の青年たちが、雄々しく成長し、イタリア社会に大きく貢献していった。そして

三十五年後の二〇一六年(平成二十八年)七月、イタリア共和国政府とイタリア創価学会

仏教協会のインテーサ(宗教協約)が発効される。それは、まさに信頼の証明であった。

ミラノに到着した伸一は、三日、二百余年の歴史と伝統を誇るスカラ座に、カルロ・マリ

ア・バディーニ総裁を訪ねた。そして、総裁の案内で、スカラ座前のミラノ市庁舎に、カ

ルロ・トニョーリ市長を表敬訪問した。

実は、この年の秋、民音などの招聘で、スカラ座の日本公演が行われることになっていた

のである。公演は、総勢約五百人という空前の規模のものであり、前年のウィーン国立歌

劇場に続き、オペラ界の最高峰の日本公演として大きな期待が集まっていた。

会見の席上、トニョーリ市長から伸一に、市の銀メダルが贈られた。

さらに、スカラ座でも、バディーニ総裁、フランチェスコ・シチリアーニ芸術監督らと会

談した。「スカラ座の名に十分に値し、世界的音楽団体である民音の名に値する、最高の

公演にします」と語る総裁の顔には、日本公演にかける並々ならぬ決意がみなぎっていた。

伝統とは、単に歳月の長さをいうのではない。常に“最高のものを”との、妥協なき挑戦の

積み重ねが育む気高き年輪である。

 

 

暁鐘 三十五

スカラ座での語らいで、バディーニ総裁は、さらに言葉をついだ。 

「この公演は、山本先生の力がなければ、実現しなかったでしょう」  

思えば、民音の専任理事であった秋月英介がスカラ座を訪ね、日本公演の交渉に当たった

のは、十六年前のことであった。スカラ座全体を招いての公演など、日本でも、アジアで

も例がなかった。日本の文化・芸術関係者は、民音がスカラ座を招きたい意向であること

を聞くと、決まって「夢想だ!」と一笑に付した。民音や学会などに世界最高峰の大歌劇

団を呼べるわけがないというのだ。  

しかし、伸一は、秋月に言った。 「心配しなくても大丈夫だよ。スカラ座には、どこま

でも音楽の興隆のために尽くそうという、誇り高い精神を感じる。その伝統を受け継ぐ音

楽の担い手たちが、民衆の新たな大音楽運動を推進している民音に、関心をもたないわけ

がない」 この伸一の確信通り、スカラ座は日本公演に賛同の意を示し、やがて仮契約を

結ぶまでにいたった。だが、当時の総裁の他界や、後任の総裁の病による引退などが続き、

事態は、なかなか進展しなかった。  

そのなかで伸一は、民音の創立者として、陰ながら応援し、手を尽くしてきた。そしてこ

の一九八一年(昭和五十六年)秋の、スカラ座日本公演が決まったのである。  

困難の壁に、一回一回、粘り強く、体当たりする思いで挑んでいく。その行動の積み重ね

が、誰もが“まさか!”と思う壮挙を成し遂げ、新しい歴史を創り上げていくのだ。  

翌四日、伸一は、モンダドーリ出版社に招かれ、教育出版局長らと懇談した。同社はイタ

リア最大手の出版社で、伸一と世界の知性との対談集を、イタリア語で出版する企画があ

り、この日の訪問となったのである。  

同社からは、後に、『法華経の智慧』が出版され、大きな反響を呼ぶことになる。  

出版は、思想を流布し、精神の対話を育み、文化向上の力となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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