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〈希望航路 池田先生と進む人生旅〉 オーストリア3

試練を越えて勝利の行進

2017930

 

池田先生の国家勲章

「オーストリア科学・芸術名誉十字章勲一等」授章に際し、

祝辞を贈るサイフェルト文部次官(当時)。

先生ご夫妻への愛情こもるスピーチに、会場は拍手と笑顔に

包まれた

                          (1992年6月10日、同国文部省で)

オーストリア文部省「賓客の間」にホルンの典雅な音色が響く。

同国が生んだ天才作曲家・モーツァルトの「ディベルティメント」第8番第1楽章。池田先生の「オーストリア

科学・芸術名誉十字章勲一等」受賞を祝賀し、同省所属のホルン五重奏団が奏でた。

1992年6月10日、先生の文化交流の貢献などをたたえ、文部大臣から叙勲された国家勲章である。

先生は謝辞の中で、日本政府が初めて公式参加したウィーン万国博覧会(1873年)に言及。”先師・牧口初代

会長は、貴国とわが国との美しい友情の序曲が、まさに奏でられようとしていたころ(1871年)に誕生されま

した”と述べつつ、オーストリアと日本の友好にかける決意をこう語った。

「縁深き貴国の尊敬する皆さま方とご一緒に、私は滔々たるドナウの流れのごとく、人間と人間、心と心とを結ぶ

精神の大河を、はるかな未来へと開いてまいりたい」

この日、先生は和歌を詠んでいる。

 

    妙法を

     唱え 唱えて

      三世まで

     和楽と幸福

      墺国同志は

            (*「墺国」とはオーストリアの意)

 

この叙勲式には、オーストリアを代表する名女優、エリザベート・アウグスティン(副総合婦人部長)が列席して

いた。

彼女が印象深く覚えている場面の一つは、当時、同国の文部次官だったユッタ・ウンカルト=サイフェルト氏の祝

辞である。

「サイフェルト氏の先生への賛嘆の言葉は非常に情熱的でした。普段、こうした式典はクールな(落ち着いた)雰

囲気で行われますが、先生の叙勲式は笑顔があふれる心温まる式典でした」

アウグスティンさんは、23歳の時、ドイツ語圏最高峰と称されるブルク劇場の専属俳優になる。シェークスピア

「真夏の夜の夢」のヘレナ役、映画「マリア・テレジア」の主演など数々の名作で脚光を浴びた。

誰もが憧れる順風満帆な役者人生に見えるが、胸奥では「本当の幸福」を求め、煩悶を続けていた。成功や名声を

得ることは一時の幸福に過ぎない。本当の幸せとは一体どこにあるのかーーーと。

確固たる人生哲学を求め、彼女は1986年、友人の勧めで御本尊を受持した。後に大統領から”宮廷俳優”の称号

を受ける夫をはじめ、友人に弘教を実らせていった。

6年後、先生の国家勲章の叙勲式に夫と共に列席。先生夫妻と出会いを結んだ。

「ご活躍は、よく伺っています。国立劇場の名優にお会いできて光栄です」と握手をしてくれた先生は、こう言葉

を継いだ。

「素晴らしい女優になるためには、まず、一人の人間として立派であり、偉大でなければなりません」

その言葉に、はっとした。心の闇に光が差すように感じた。

彼女は言う。

「人間として偉大になるには、自分の弱さと向き合い、戦い続けなければならない。自行化他の実践に励み、弱さ

を克服していく中に幸福への直道があると、先生に教えていただきました」

別れ際、先生はユーモアを込め、「次に会う時は、あなたのサインをください」と。

恐縮したアウグスティンさんが「私の方こそ先生のサインがほしいです」と応えると、笑顔が広がった。

この日の原点を胸に刻み、夫の心臓病など幾多の試練を勝ち越えた。また、3人の子を育てながら、仕事でも実証

を示してきた。

今もなお、女優兼監督としてブルク劇場の舞台に立つ傍ら、大学で後進の教育、演技指導に当たっている。

同国SGIでは、広報担当を務め、多くの学識者らと友諠を深めている。

本年6月、先生の叙勲25周年を記念する座談会がオーストリア各地で開かれ、彼女の自宅でも開催された。

「来賓であるサイフェルト氏と共に、私が仏法対話を進める3人の友人も出席してくれました。SGIへの深い友

情を語る氏の姿に触れ、友人は感激していました」

アウグスティンさんにとって25年前の叙勲式は、師弟の絆を結び、サイフェルト氏との友情の契機となった「人

生の原点」である。

同国SGIの書記長を務めるヒロユキ・シミズさんは、東京・小平市の出身。62年、病弱に悩む母と共に10歳

で入会した。

6年後の68年8月8日に行われた「第1回高等部総会」での先生の「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能

の芽は、急速に伸びる」「語学を学びなさい」との言葉に、自身の使命を見いだし、海外への挑戦を志した。

東京の国立大学でドイツ語を専攻し、78年にミュンヘ大学に留学。卒業後、デュッセルドルフの日系貿易商社に

就職したが、上司との人間関係に悩み、転職を考えていた。

その折、フランクフルトを訪問した先生との出会いが。運営役員だったシミズさんに、先生は職場のことを尋ね、

「いい会社だね。20年頑張りなさい」と声を掛けてくれた。

そして、そばにあった扇子に筆を走らせ、シミズさんに贈った。

「忘れまじ 君が育つを 待つ日々と  5月19日 ドイツにて 清水君 大作」

シミズさんは述懐する。「退職しようとしていたことを見抜かれたのだと思います。先生の言葉に奮起し、職場

で信頼を得ようと懸命に働きました」

努力が実り、シミズさんは管理職として次々に昇進を果たす。

そして、92年に先生がオーストリアを訪問した際は、運営役員として同行した。

「振り返れば、この時、オーストリア広布との縁が結ばれたのだと思います」

98年、部長職でオーストリアへ転勤に。2004年に独立・起業し、現在は日本とオーストリアの技術協力や

貿易を軸とした投資・代理業務などを幅広く展開している。

師との約束を胸に、社会に貢献し、広布の最前線でも活躍を続ける中で、家族の宿命転換を果たした。

 

入会当時、体の弱かった母は見違えるように健康になり、2度のがんを乗り越えた。全ての苦難を題目根本に乗り

越えた母の姿に、本物の信心を教わった。

長年、信心猛反対だった父も晩年は学会への理解を深め、オーストリア広布に励むシミズさんの背中を押してくれ

るように。父は今年3月、母は今年7月、地域の同志の方々の祈りに包まれ、共に91歳で、眠るように霊山に旅

立った。

傍らには、二人三脚で広布の道を歩む妻のルイーゼさん(副総合婦人部長)がいる。結婚の際(83年)、フラン

クフルトに滞在していた先生に報告すると、一緒に勤行・唱題してくれた。「頼むよ」との先生の力強い声が耳を

離れない。

シミズさんは今、縁する全ての人に「感謝の唱題」を送りながら、師から託され、師に誓った「オーストリア広布」

という誉の使命に生きる。

 

楽聖ベートーベンが人生の大半を過ごしたオーストリア。先生は彼の楽曲を若き日から愛聴してきた。

聴力を失うなど幾多の試練にも、ベートーベンは屈しなかった。鋼のような”生命のバネ”で苦難を跳ね返し、不滅

の名作群を残していった。代表作の多くは、難聴になった20代後半以後に作られたものである。

苦悩と闘い抜き、栄光の凱歌を奏でた音楽家の生涯を偲び、先生はつづっている。

「死後もなお、彼の音楽は、世界の民衆の心を感動で征服しつつ、勝利、勝利の行進を続けている。『一人の人間

における人間革命の波動は、これほど世界を変えるのだ。よし!彼は音楽で、我は我の道で!』。(我が青春の誓

い)と永遠に結ばれた街。それがウィーンなのである」

安逸をむさぼる人生に幸福はない。眼前に立つ試練の壁に雄々しく挑みゆく中に、充実の時は輝くのだ。

広布の誓願が刻まれたオーストリアも天地で対話に走る同志は、師の心を継ぎ、偉大なる人間革命の哲理を社会に

広げている。

 

 

 

 

 

 


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