***ウィーン近郊にある宿舎クライナーヒュッテの庭園で、
***懇談会に集った同志に真心の励ましを送る池田先生
*****************(1981年5月26日)
池田先生はこれまで、オーストリアを3度(1961年10月、
81年5月、92年6月)訪問している。この激励行を原点と
して、同国のSGIメンバーは、どのように広宣流布を進めて
きたのだろうか。その師弟のストーリーをひもとく。
20年ぶり2度めの訪問だった。81年5月25日、池田先生はブルガリアをたち、オーストリアの首都ウィーン
に降り立った。
この時、同国SGIのメンバー数は、わずか17人。この訪問から広布拡大の上げ潮が起こるのである。
翌26日、先生は、ウィーン近郊で英国オックスフォード大学のブライアン・ウィルソン教授と会談した後、S
GIの懇談会に出席。オーストリア広布の未来を見据え、指針を贈った。
「仏法の信仰者は、生命の尊厳をもととして、文化、平和を徹底的に愛し、行動していっていただきたい。そし
て、勤行・唱題が一切の源泉となることを忘れてはならない。自分を大切に、家庭を大切に、良き市民として世
界に貢献してもらいたい」
「オーストリアは、少人数の精鋭主義で、一人一人が身体的、精神的、社会的にも立派な輝く実証を示しゆくこ
とが大切である。絶対に焦ってはならない。少人数で長い将来の基盤を確実に築きゆく10年、20年であって
いただきたい」
そして先生は、「きょうは、ここに世界一小さな本部を結成しよう」と提案。「まずは、良い人50人を目指そ
う」との具体的な指標も示した。
* * *
この席上、フルートの二重奏でオーストリア民謡を披露した夫妻がいる。キヨシ・ツクイさん(副理事長)と妻
のエリカさん(ウィーン西本部総合婦人部長)である。
14歳でフルートを始めたキヨシさん。中学時代は学会の音楽隊で青春の汗を流した。
高等部の時、池田先生の「青年は世界を目指せ」との言葉を胸に刻み、音楽の都ウィーンに渡ったのは74年の
ことである。
3年後、チェコ・プラハの国際コンクールで同門だったエリカさんと出会い、79年に結婚。夫妻で広布草創の
道を駆けた。
夫妻で奏でる麗しい音色を聞いた先生は、ウィーンの絵はがきにペンを走らせた。
「忘れまじ 二人のフルート 幸あれと」
さらに、先生は夫妻の熱演をたたえ、握手を交わした。夫妻の感激はひとしおだった。
終了後、キヨシさんは先生に、「オーストリアの国籍を取ろうと思います」と、かねてから抱いていた決意を報
告した。
うなずいた先生は、「生涯、オーストリア広布に生き抜くんだよ」と励ました。
だが、キヨシさんには心配なこともあった。日本で暮らす家族のこと。すでに父は他界し、妹が母の面倒を見て
いた。「家族の将来をどう考えればよいでしょうか」と尋ねたキヨシさんに、間髪入れず、先生の力強い声が返
ってきた。「仏法には犠牲はないよ。私がいるじゃないか。創価学会があるじゃないか。お母さんは絶対に幸せ
になれる。心配ないよ」
そして、”日本に戻ったら、お母さまに必ずお会いするよ”と約束した。翌々月は、先生は創価学園の栄光祭に、
キヨシさんの母と妹を招待し、真心の励ましを送っている。
ツクイさん夫妻は、信心で多くの苦難を乗り越えた。難産の末、未熟児で誕生した双子も後継の道を歩む。
長女のサチエさんはウィーン経済大学で修士号を取得し、世界的な技術監査協会に勤務。SGIではウィーン
西本部で女子部本部長を務めている。
長男のヒロシさんは、創価大学文学部を卒業し、グラフィックデザイナーとして大手企業で働く。ウィーン北
本部の男子部本部長として、友の激励に力を注ぐ日々だ。
キヨシさんは18年にわたり、オーストリアSGIの書記長を。
音楽家として、ミュルツツーシュラーク市立ヨハネス・ブラームス音楽学校の副校長を長年務め、東京でのコ
ンサートを通じた両国の文化交流にも貢献を果たしてきた。
81年5月27日、先生4はウィーン市内で各界の名士と会見した。
オーストリア文部省ではフレド・ジノワツ副首相と、ウィーン国立歌劇場ではエーゴン・ゼーフェルナー総監
督と会談。話題の中心は、80年秋に民音が招へいした同歌劇場の日本公演。両者から高い評価が寄せられた。
また、61年の初訪問時に宿泊したホテルの支配人・オスターダル氏やベートーベン博物館の管理人であるド
ボルジャック氏と懇談し、友情を育んでいる。
その間隙を縫い、先生は、同国SGIの初代本部長に就任したヨシオ・ナカムラさんのアパートを訪ねた。
先生は「皆で勤行しても大丈夫? お隣の迷惑にならないかな」と尋ね、了承を得ると、居合わせたメンバー
と勤行・唱題した。
* * *
前日の本部結成の場で地区担当員(現在の地区婦人部長)の任命を受けたアヤコ・ナカムラさん(副総合婦人
部長)はこの時、アパートに隣接するベルヴェデーレ宮殿の広場で、未来っ子たちのお守りをしていた。
「先生との勤行に参加できないことは残念でしたが、これも広布の重要な役目だと、遊んでいる子どもたちが
けがをしないように、見守っていました」
数十分後、役目を交代してアパートに戻ったアヤコさんを、先生は暖かく迎え、「子どもたちの面倒を見てく
れてありがとう」とオレンジジュースを手渡してくれた。「その先生のぬくもりは、今も忘れられません」
新潟で生まれ育ったアヤコさん。夫の音楽留学を機に、オーストリアに渡り、78年7月に入会した。
移住した当初は、ドイツ語ができず、生活に不安を抱えていた。また、体質の関係で、医師から「自然妊娠は
できない」と言われ、悩んでいた。
体調の優れない中、家計を支えるためにベビーシッターの仕事をし、片言のドイツ語で折伏にも挑んだ。
仏縁を広げたが、弘教はなかなか実らなかった。そうした苦悩の中での81年5月の先生の訪問だった。
26日の懇談会にも出席したアヤコさん。先生は握手し、「頑張るんだよ」と声を掛けてくれた。この時、先
生は語っている。
「仏法に巡り合うということが、どれほどまれなことか。皆さんは、その喜びと誇りを持ってもらいたい」
アヤコさんは「確信に満ちた先生の声の響きに圧倒されました。仏法に出合えた感謝と、宿命転換しようとい
う勇気が湧いたんです」と振り返る。
学会活動と弘教に挑みぬき、翌82年12月、アヤコさんは、”不可能”といわれた自然妊娠で、待望の第1子
を出産した。今、先生の激励行の記憶を青年部に語り継いでいる。
81年の先生の訪問を原点として、オーストリア広布は、着実な伸展を続けてきた。
そして。11年後の92年6月、先生の3度目の訪問を、幸福と勝利の実証をもって迎えるのである。