『命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり』(御書986頁)。
日蓮大聖人は、限りない生命の尊極さを強調されています。今回は、「生命尊厳」について確認していきます。
南無妙法蓮華経の唱題行によって万人成仏の方途を示した日蓮仏法。誰もが本来、「仏の生命」を具えた尊い
存在であると説いているところに、私たちの仏法の特色があります。
日蓮大聖人は病と闘う富木尼に宛てたお手紙で、繰り返し生命の尊さを教えられています。その中で、「命は
三千大千世界の財よりも尊いのです。しかも富木尼御前は、年齢もまだ、それほどとっているわけではありませ
ん。その上、法華経にあらわれたのです。一日でも長く生きていらっしゃるなら、それだけ功徳が積もるのです。
ああ、惜しい命です。惜しい命です」(御書986頁、通解)と励まされています。
ここで大聖人が生命の尊さを強調されているのは、「一日でも長く、生き抜いていきなさい」と、 尼御前の
”生きる意志”を呼び起こされるためと拝することができます。
池田先生はつづられています。
「釈尊の教えの真髄である法華経の如来寿量品は、まさに生命の無限尊さを説き明かしております。この生命の
尊厳を知ることこそが、仏法の真髄なのです。ゆえに法華経を信ずる人は、尊厳なる生命を一日でも長く生き抜
いていくことです。
誰人の生命も、平等で、かけがえのない価値を持っています。
日蓮大聖人は、「法華経法師品第10には、『もしこの善男子・善女人は、(私<釈尊>が滅度した後、ひそか
に一人のためであっても、法華経の一句なりとも説くなら、まさに知りなさい)この人はすなわち如来の使いで
ある』と説かれており、僧も俗も尼も女も、法華経を一句でも人に語る人は如来の使いであるというのである」
(御書1448頁、通解)と仰せです。
仏の大願とは、広宣流布であり、民衆の幸福と平和の実現にあります。仏の滅後、この大願を受け継ぐ人がいて、
初めて広宣流布は伸展し、幸福と平和も築かれます。
法華経法師品の文は仏の大願を受け継いで法華経の一句をも語り、弘める仏弟子の使命の尊さを示しています。
末法悪世において、妙法を語り弘める人には、計り知れない氏名があります。仏法では全ての人が平等な仏弟
子であり、使命深い存在だと捉えるのです。他の御書で大聖人は、「此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法
華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(1134頁)とも仰せです。ゆえに、学会員同
士が互いに尊敬し、意見を尊重し合いながら、団結して前進していくことが重要なのです。
御本尊の下で皆が平等な仏子であり、使命深き存在だからです。
日蓮大聖人は法華経に説かれる「不軽菩薩」の実践を通して、相手を仏の如く尊敬していった時に、相手の仏性
も必ず自分を礼拝すると仰せです。
それが、「不軽菩薩が四衆を礼拝すれば、増上慢の四衆の仏性もまた同時に不軽菩薩を礼拝するのである。これ
はちょうど鏡に向かって礼拝する時、そこに映っている自分の影もまた、自分を礼拝するのと同じ原理である。
(御書769頁、通解)との御文です。
人間として、どうしてもウマが合わない。価値観が合わない人はいるでしょう。しかし、大事なことは誰人であ
れ、心を開いて対話していくことであり、相手を仏のごとく尊敬していった時には、その心は必ず相手に伝わり
ます。
池田先生は語られています。
「相手に具わる最極の仏の生命を信じ、敬い、引き出していく祈りと行動が、そのまま自分自身の仏の生命を荘
厳に光輝かせる。この相互触発の善縁を広げ、世界の人びとの心を結び高めゆくことを、我らは『広宣流布』と
呼ぶ。 我らは、最も強く美しき友情の心で、眼前の一人また一人と語らい、地域に、社会に、そして世界に、
『生命尊厳』の旗高く、平和の連帯を広げていくのだ」
自分と同じ仏の生命を持っていると信じて、敬うのが仏法者の振舞いです。