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戸田城聖の弟子として

 

恩師との出会い

昭和22年(1947年)8月14日。池田大作青年は、小学校時

代からの知人に誘われた。 「“生命哲学”の会があるから参加

しないか?」 戦後、価値観の大きな変化に戸惑いながら、

確固たる生き方を模索していた青年は、“生命哲学”と聞いて、

その集まりに興味を持った。 会場へ行くと、座の中央に、度

の強いメガネをかけた人物がいた。 彼の話は、仏法の講義の

ようであったが、身近な例を通して、日常生活や社会問題に鋭

い洞察が加えられていく。その人物こそが、創価学会第二代会

長・戸田城聖(当時理事長)であった。

座談ののち、青年は戸田会長に「正しい人生とは何か」など、いくつか質問をした。簡潔ながら、真剣な答えが返っ

てきた。 「正直いって、その時の私自身、宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった。戸田先生の話

を聞き、姿を見て、『この人なら……』と信仰の道を歩む決意をした」(『私の履歴書』) 青年は、戸田会長の人格

に魅せられた。 戸田会長が、軍部政府に抵抗し投獄された事実も、背中を押した。運命の出会いから10日後の8月

24日。名誉会長は創価学会に入会。19歳であった。

 

苦闘の日々

昭和24年(1949年)。戸田会長(当時理事長)が経営する

出版社・日本正学館に入社した池田大作青年は少年雑誌の編

集に全力を傾けた。 大手出版社による雑誌の復刊が相次ぐな

かで、小さな出版社は苦戦。戸田会長は、出版事業を断念す

る。 信用組合の経営に乗り出し、事業の立て直しをはかった

戸田会長だったが、戦後の経済混乱のあおりを受け営業停止に

追い込まれる。多くの社員が去っていった。 給料の支払いは

とどこおり、コートなしで過ごす冬。たくあんだけの夕食をと

り、熱にうなされて目が覚める——。 それでも、池田青年は、苦境に立たされた師を支え続けた。 ある夜の、仕事

の帰途。師と弟子は二人して川べりを歩いていた。池田青年は、当時の流行歌をもじって、ふと“こんな男に誰がし

た”と口ずさんだ。すると、

戸田会長が振り返り「おれだよ」と言って破顔一笑した。「生きるか死ぬかのような苦闘の時である。私は『おれだ

よ』の一言に熱いものを感じた。どんな自分になろうと、私はついていこう」(『私の履歴書』) 命がけの死闘の

日々。嵐に立ち向かう師弟の絆は、その強固さを増していったのである。

 

弟子としての奮闘

昭和26年(1951年)5月3日。戸田第二代会長の就任式が

挙行された。事業の苦闘を乗り越えた戸田会長は、創価学会

の世帯数75万を達成すると宣言。約3000人の会員数にすぎ

なかった、当時の創価学会。壮大な目標であった。 会場の片

隅で、池田大作青年は、師の燃えるような決意を目の当たり

にして深く心に期するものがあった。 翌昭和27年(1952年)

1月。戸田会長から蒲田支部の支部幹事に任命された池田青年

は、会員一人ひとりに即した励ましで、支部の空気を一変させ

る。2月、蒲田支部は、他の支部に倍する201世帯の弘教を達成した。 昭和31年(1956年)の年頭から、関西方

面の責任者として指揮をとり、5月には大阪支部が1万1111世帯というかつてない弘教を成し遂げた。戸田会長の

期待に存分に応える、池田青年の奮闘は学会全体の弘教の機運を大いに高めた。 戸田会長の就任7年目となる、昭

和32年(1957年)の末。ついに、75万世帯の弘教は達成されたのである。師と弟子が一体となって打ち立てた、

金字塔であった。

 

戸田会長の逝去

昭和33年(1958年)3月16日。6000人の青年が集結した

記念式典は、迫りくる死を自覚した戸田会長が、青年に後事

を託す儀式となった。 後年、当時を振り返って池田大作名誉

会長は述懐する。 「この年の三月、一ヶ月間にわたり、先生

のご生涯の総仕上げともいうべき、数々の行事が続いていた」

「お体の具合は甚だ悪い。何度も医師を呼ばねばならぬ状況で

あった」(「随筆 新・人間革命」) 式典で戸田会長は、衰弱し

た体をものともせず、生命を振り絞るように叫んだ。

「今日、私は君たち青年に託しておきたい。未来は君たちに任せる」。戸田会長の横には、式典の司会をつとめた

池田青年室長(当時)が、片時も離れず付き添っていた。 2週間後の、4月2日、午後6時30分。戸田会長、逝

去。“この世から、悲惨の二字を無くしたい”と、命をかけた闘争を貫いた58年の尊き生涯であった。 池田名誉会

長は、その日の日記に記した。 「この一瞬。われ、筆舌に尽くし難し」最愛の師との別れに、痛切な悲しみを感じ

ながら、しかし、愛弟子は一人立つ。「戦おう。師の偉大さを、世間に証明するために」

 

師の構想実現

昭和35年(1960年)、池田大作第三代会長の就任式が両国

の日大講堂で挙行された。戸田会長の就任の日と同じ、5月

3日であった。 その5か月後の10月。32歳の若き会長は、

初の海外訪問となる北・南米の旅に出発。胸のポケットには

、戸田会長の写真があった。 戸田会長の構想を具現化する、

池田名誉会長の歩みは続いた。世界192か国・地域へと拡大

したSGI(創価学会インタナショナル)の連帯。昭和43年

(1968年)の創価学園の開学を皮切りとする、「創価教育

の学校設立」の構想実現。戸田会長の「原水爆禁止宣言」の精神に基づく、核廃絶への署名運動や「核の脅威展」

の開催——。 平成8年(1996年)には、戸田記念国際平和研究所を創設。「(研究所の創設は)いわば二十世紀

の私の活動の総仕上げともいうべき事業であり、これで師の構想は、ひとまず、すべて実現し得たとの感慨があっ

た」(『大道を歩む IV』) 同年、池田名誉会長はアメリカ・コロンビア大学での講演で語った。 「今の私の98%

は、すべて、恩師より学んだものであります」 師の偉大さの宣揚を誓った弟子が、歩みを止めることはない。

 


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