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雄飛 四十六

ワシントンDCに続いて訪れたシカゴでは、十二日、市内のマダイナ公会堂に五千人のメ

ンバーが喜々として集い、シカゴ文化祭、そして記念総会が行われた。  

二十年前、山本伸一がシカゴを初訪問した時、メンバーは十数人であったことを思うと、

隔世の感があった。この文化祭で、ひときわ彼の心をとらえたのは、サチエ・ペリーと、

その七人の子どもによる演目であった。  

彼女は十四歳の時に広島で被爆していた。一九五二年(昭和二十七年)、米軍の軍人であ

った夫と結婚し、アメリカに渡った。だが、待ち受けていたのは、夫のアルコール依存症

と暴力、経済苦、子どもの非行、言葉の壁、偏見と差別であった。七人の子どもを育てる

ために、必死に働いた。一家の住む地域は、人種間の対立や争いごとが絶えず、夫から、

護身用として銃を持たされた。苦悩にあえぎ、恐怖に怯える毎日であった。  

そんなある日、近所に住む日系の婦人から仏法の話を聞き、信心を始めた。六五年(同四

十年)のことである。

必ず幸せになれるとの励ましに心は燃えた。何よりも宿命を転換したかった。題目を唱え

ると勇気が湧いた。

そして、教学を学ぶなかで、自分には地涌の菩薩として、このアメリカの人たちに妙法を

教え、自他共の幸福を実現していく使命があることを知ったのだ。人生の真の意義を知る

時、生命は蘇る。カタコトの英語を駆使して弘教に歩いた。  

宿命は怒濤のごとく、彼女を襲った。末娘は病に苦しみ、手術を繰り返した。夫のアルコ

ール依存症、経済苦も続いた。しかし、“何があっても、断じて負けまい”と、信心を根本

に、敢然と立ち向かう自分になっていた。七人の子どもたちも信心に励み、家計を支える

ためにバンドを組み、プロとして活躍するようになった。宿命と戦いながらも、希望と歓

喜を実感する日々であった。彼女は、この体験を、文化祭の舞台で読み上げたのである。

一人ひとりの蘇生の体験があってこそ、普遍の法理は証明されていく。

 

雄飛 四十七  

シカゴ文化祭でサチエ・ペリーは、山本伸一への手紙として認めた、自身の体験を読み上

げていった。

「親愛なる山本先生! 信心を始めた時、自信も、勇気も、志もなく、ただ生活苦にあえ

ぐ毎日でした。信心で幸せをつかむしかないと思った私は、懸命に弘教に励みました」

一家の来し方がスライドで映し出される。  彼女は、感動に声を震わせながら叫んだ。

「先生! 私は、今、一家和楽を勝ち取り、こんなに幸せになりました。子どもたちも立

派に成長しています。

私の子どもたちを、いつか先生に見ていただきたいと願ってきました。これが、その子ど

もたちです!」

舞台のスポットライトが七人の子どもたちを照らした。歌と演奏が始まった。軽やかなリ

ズムに合わせ、歌い、楽器を奏でる子どもたち。母の目には涙が光っていた。

その歌声は、希望の朝を告げるファンファーレであり、その調べは、幸の歓喜の音律であ

った。伸一は、家族の勝利劇の舞台を、ひときわ大きな拍手で賞讃した。

世界の平和は、一人の人間革命、宿命転換から始まる。平和の実像は、一家の和楽、幸福

にこそある。

彼は、出演者らに、次々と激励の句などを詠んでいった。そして、ペリー一家を代表して

長男に、「母の曲誇りかがやけ 王者の子」との句を認めて贈ったのである。

子どもたちは、母の志を受け継ぎ、アメリカ社会と広布のリーダーに育っていく。たとえ

ば、病弱だった末娘のアユミは、経済苦のなか、大学に進んで教育の仕事に携わり、さら

に大学院に学び博士号を取得。

教育者や企業・団体のリーダー、国連職員などの人材育成プログラムを提供する仕事に従

事する。また、アメリカSGIにあって、全米の婦人部長として活躍していくのである。

アメリカ広布二十周年――万人が等しく仏の生命を具えていることを説き示す日蓮仏法に

よって、新たなアメリカンドリームが実を結び、多くの幸の人華を咲かせていたのだ。

 

雄飛 四十八  

シカゴ文化祭に引き続いて、記念総会が行われた。 

この席でアメリカの理事長が、「明年、シカゴで世界平和文化祭を開催してはどうか」と

の、山本伸一の提案を発表し、参加者に諮ると、大きな賛同の拍手が広がった。

総会のあいさつで伸一は、教学の重要性に触れ、どこまでも御書根本に仏道修行に励んで

いくべきであることを訴えた。 

それぞれが我見に走れば、団結することはできない。しかし、御書に立ち返れば、心を一

つにすることができる。仏法の法理にこそ、私たちの行動の規範がある。 

教学の研鑽を呼びかけた伸一は、シカゴを発つ十三日の朝、代表幹部に「御義口伝」を講

義した。さらに空港の待ち時間にも、幹部らに「開目抄」を講義し、仏法者の在り方を指

導した。率先垂範の行動こそが、リーダーの不可欠な要件である。     

ロサンゼルスに到着した伸一は、サンタモニカ市へ向かい、世界文化センターでの勤行会

やSGI親善代表者会議に出席。そして十七日夜、世界四十八カ国・地域の代表一万五千

人が集って開催された、第一回SGI総会に出席した。会場のロサンゼルス市のシュライ

ン公会堂は、アカデミー賞の授賞式などが行われた由緒ある荘厳な建物である。 

総会に対して、国連事務総長、アメリカの上・下院議員、地元カリフォルニア州をはじめ

ニューヨーク州などの各州知事、ロサンゼルス市やデトロイト市などの各市長、ミネソタ

大学学長ら各大学関係者等から、祝福のメッセージが寄せられた。 

席上、伸一は、一九五三年(昭和二十八年)七月、恩師・戸田城聖から贈られた和歌「大

鵬の 空をぞかける 姿して 千代の命を くらしてぞあれ」を紹介し、その言葉の通り

に全世界を駆け巡り、妙法広布に尽くし抜いていきたいとの決意と真情を披瀝した。  

“いよいよ、これからだ!”――彼の眼は、希望の旭日に輝く新世紀を見すえていた。

 

雄飛 四十九

日本では、六月に学会が恐喝事件で山脇友政を告訴すると、追い詰められた山脇は週刊誌

やテレビを使って、学会への中傷を繰り返していた。彼は、荒唐無稽な作り話などで、学

会には社会的不正があると喧伝する一方、「正信会」に、山本伸一の証人喚問を求める集

会やデモ、国会議員への請願等を行うよう働きかけた。それらは実行されたものの、結局

は、破綻へと向かっていくのだ。

また、「正信会」の僧たちと、日顕や宗務院との対立の溝はますます深まり、それは決定

的な事態となっていくのである。

宗内は騒然たる状況となっていたが、学会の僧俗和合の姿勢は変わることはなかった。

十一月十八日、創価学会創立五十周年を記念しての慶祝式典が、創価大学中央体育館で晴

れやかに挙行された。

ここには、山本伸一のはつらつとした姿があった。万雷の拍手が轟くなか、彼は、あいさ

つに立った。

「創価学会を創立された初代会長・牧口常三郎先生、そして、学会の基盤を築き、今日の

大発展をもたらしてくださった第二代会長・戸田城聖先生に、まず、衷心より御礼申し上

げます。

また、五十年にわたる広布の苦楽の尾根を共に歩み抜いてくださった草創の功労者、並び

にすべての会員の皆様に、満腔の思いを込めて御礼申し上げる次第です。

創価学会は、峻厳な信心がある限り、広布をめざす果敢な弘教の実践がある限り、永遠不

滅であります。

妙法を根本に平和と教育の推進に尽くしてきた学会の大民衆運動の第一幕は終了し、いよ

いよ、ここに第二幕が開いたのであります。

今日よりは、創立百周年をめざして、世界の平和と文化、広布のために、心新たに大前進

してまいろうではありませんか!」

師子吼は轟いた。御聖訓には『師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし』(御

書1190頁)と。皆の闘魂が火を噴いた。

 

雄飛 五十

一九八一年(昭和五十六年)が明けた。  

反転攻勢を決する年である。学会は、この年を「青年の年」と定め、同志は新生の出発を

期す決意を固め合っていた。 

元日、山本伸一は、恩師・戸田城聖が第二代会長として立った翌五二年(同二十七年)の

正月に詠んだ和歌を、生命で嚙み締めていた。 

「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」 この歌は、伸一が第

三代会長に就任した六〇年(同三十五年)五月三日、就任式の会場となった日大講堂に、

戸田の遺影とともに掲げられたのである。彼は、歌を眼に焼き付けながら、恩師の遺影に

今世の生涯の大法戦を開始し、不二の弟子として世界広布の旅路を征こうと、深く心に誓

ったのであった。  

就任式の朝、伸一は誓いの和歌を詠んだ。

「負けるなと 断じて指揮とれ 師の声は 己の生命に 轟き残らむ」

そして、この八一年の元朝、彼は、いよいよ全世界の同志と共に世界へ打って出て、本格

的に広宣流布の指揮を執らねばならないと心を定めていたのである。  

彼は、翌一月二日で五十三歳となる。限りある人生の長さを思えば、世界広布のために、

今、なすべきことはあまりにも多い。もはや一刻も、躊躇している時ではなかった。  

宗内は、ますます混乱の様相を呈していた。伸一は、何があろうと自身が矢面に立って、

宗門を外護しつつ、新たな道を開く決心であった。 一月十三日夜、伸一は成田から、

アメリカのハワイへ向けて出発した。今回の海外訪問は約二カ月の予定であり、アメリカ

では、ハワイ、ロサンゼルス、マイアミなどを回り、さらに、中米のパナマ、メキシコを

歴訪することになっていた。  

ハワイでは、十五カ国・地域の代表が集い、第一回世界教学最高会議が行われた。生命尊

厳の根幹となる仏法の法理を掘り下げ、世界に人類平和の確固たる哲理を打ち立てていか

ねばならないと、伸一は痛感していた。

 

 

 

 


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