美しい青空が、どこまでも広がっていた。
わが師逝いて2年。1960年(昭和35年)5月3日、私は第三代会長に就任した。
以来、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』(232頁)との御聖訓を胸に、怒濤のなかを
ひた走った。
先生の「広宣流布は、一人の青年が命を捨てれば必ずできる」との言葉が、頭から離れることはなかった。
来る日も来る日も、苦難と迫害の連続であったが、「難こそ誉れ」と、私は悠々と指揮を執り続けた。
就任10周年の佳節となる「5.3」も、学会批判の包囲網のなかでの新出発であった。
また、会長就任から20年目に入る、79年(昭和54年)の「5.3」も……。
この直前、私は、名誉会長となった。
その陰には、私を追い落とし、広宣流布の指導者不在の学会にして、意のままに操ろうとする、謀略の輩の画策が
あった。
狂気そのものの中傷の集中砲火のさなかにあった5月3日、本部総会が、創価大学の体育館で行われた。
首脳幹部も、不安と戸惑いを隠せなかった。私への拍手も遠慮がちな姿が痛々しかった。いな、浅ましかった。
総会が終了し、渡り廊下を歩いていると、数人の婦人たちが、「先生!」と叫んで、駆け寄って来た。お子さん
連れの方もいた。
一目、私に会おうと、ずっと待っていてくださったのであろう。目には涙が光っていた。
「ありがとう! お元気で!」
私は、大きく手を振り、声をかけ、全力で励ましを送った。
そして、思った。
“これから、こういう人たちを、本当の善良の市民を、誰が守っていくのか! 誰が幸福にしていくのか!
冷酷非道な法師の皮を著た畜生たちが、民衆の上に君臨すれば、どうなってしまうのか!”
私は信濃町の本部には戻らず、総会の会場から神奈川文化会館へ向かった。
世界につながる平和の港を望む横浜の地から、新たな戦いを起こすのだと、心に決めていたからである。
5月5日、戸田先生のお顔を胸に描きながら、わが誓いを筆に託して、私はしたためた。
――「正義」
その脇に「われ一人正義の旗持つ也」と綴った。
私は“今こそ本当の勝負だ。いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で、
断固として勝利してみせる”と、深く決意した。
今、あの日から20年目。
鮮やかに心に残る、神奈川の城である。
世界に広がる港、多くの庶民が喜々として散策しゆく、希望の山下公園。
また、凛々しき決意を胸に秘めて、走り回る創価班。
“よし、私は断固として第二章の広宣流布の指揮を執る。法剣を抜いて、宝剣を抜いて、断じて勝ってみせる”との、
あの日の誓いは、あまりにも深かった。
今や、世界の民衆が、学会に希望を託し、大きな声援を送っている。
「5.3」とは、黒き陰謀の嵐を突き抜けた、「勝利」と「栄光」の大輪の七色の虹が輝きゆく日である。
三世永遠の大道、不滅の黄金の大道を進みゆく広布英雄の旅立ちの日である。
【「随筆 新・人間革命」22/聖教新聞 1998-04-29付】