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雄飛 三十六  

山本伸一は、岐阜文化会館から各務原文化会館に移動した。ここにも、彼の岐阜訪問を聞

いた大勢の同志が集い、会館は人であふれ、玄関から入ることはできなかった。 

「よし、自由勤行会をやろう!」 伸一は、こう言うと、建物の外にある螺旋状の非常階

段を上がり、会場へ向かった。 

彼は、参加者に呼びかけた。 「辛い思いをされたでしょう。 でも、もう大丈夫です! 

皆さんは勝ったんです。一人も残らず、幸せという人生の栄冠を勝ち取ってください。

私は、皆さんを断じて守ります」  勇気の声が響いた。  伸一は、共に祈りを捧げた。

「春が来た」など、次々とピアノも弾いた。婦人部の代表と懇談し、各部の友と記念撮影

もした。中部滞在中の記念撮影は優に百回を超えた。  

翌十二日に岐阜羽島駅を発つまで、岐阜での彼の激励は続いた。

“一目でも会いたい”と駅に駆けつけたメンバーを見ると、改札に入る間際まで声をかけ、

集った十九人を「羽島グループ」としてはどうかと提案した。  

一回の出会いを、単なる思い出として終わらせたくなかった。新しき誓いと未来への出発

の起点にしたかったのである。 

伸一の指導旅は続いた。静岡に移動した彼は、静岡文化会館で男子部部長会参加者に万感

の思いを込めて訴えた。  

「広宣流布の後継を頼む!」 「今こそ、信心修行の労苦を忘れるな!」 「『身は軽く

法は重し』を深く心に刻め!」 「社会、職場の勝利者たれ!」 さらに、十三日には、

同会館で自由勤行会を開催し、第一線の同志の輪の中に飛び込み、十四日に東京に帰った。  

四月二十九日に長崎から始まった激励行で、彼は十五万人を超える同志を励ました。

皆の胸に、歓喜と勇気の火を赤々と燃え上がらせた。皆が、広宣流布に生き抜く創価の師

弟の大道を歩み抜こうと誓願した。 

冷酷無残な悪侶と反逆の徒輩の謀略に対し、反転攻勢の烽火が天高く上がったのだ。

 

雄飛 三十七  

東京は、青葉の季節であった。 山本伸一は、広宣流布への飛翔を阻む謀略の鉄鎖を断ち

切り、大鷲のごとく希望の青空へ飛び立った。  

第五次訪中、そして、長崎、福岡、大阪、愛知、岐阜、静岡の指導を終えて信濃町に戻っ

た伸一は、本陣・東京の再構築をめざして、練馬区や台東区、世田谷区、港区の会館など

を訪れ、同志の激励に奔走した。 伸一は、広布新時代に向かって翼を広げ、奮戦を続け

ていた。一方、会長の十条潔をはじめ学会首脳は、しばらく前から悩み抜いていた。

山脇友政についての問題であった。 ――金に目がくらんだ山脇は、五年前に富士宮の土

地売買等に絡み、巧妙な手口で大金を手にすると、自ら冷凍食品会社の経営に乗り出した。

しかし、所詮は素人商売であり、放漫経営がたたって事業不振となり、四十数億円の莫大

な負債をかかえるにいたった。返済のめども立たず、追い詰められた彼は、学会から金を

脅し取ることを考えた。  

これまで山脇は、若手僧らに学会を激しく批判させ、自分が宗門との和合の交渉役となっ

て、学会を意のままに操ろうと暗躍してきた。そのために、裏で僧たちの学会への不信と

反感を煽り、攻撃させるように、捏造した情報を流し続けたのである。 

さらに、学会攻略の計画を練り、再三にわたって、それを宗門に伝え、法主・日達にも讒

言を重ねてきた。  

自分が火をつけ、事態を紛糾させておいて、自分が収拾役を買って出るという、いわゆる

「マッチポンプ」を繰り返したのだ。  

また、学会の社会的な信用を失墜させ、会長の伸一を追い落とそうと、マスコミにも事実

を歪めた情報を流し続けた。  

だが、その化けの皮が次第にはがれ、謀略と二枚舌の背信行為の数々が露見するとともに

事業は窮地に陥ったのだ。自業自得であった。御聖訓には、「始めは事なきやうにて終に

ほろびざるは候はず」(御書1190頁)と仰せである。

 

雄飛 三十八  

山脇友政が陰でつながっていたのが、教学部長の原山高夫であった。彼は、前年の一九七

九年(昭和五十四年)九月、聖教新聞社に保管されていた資料文書の大量のコピーを運び

出した。山脇は、それらを使いながら学会と宗門の離間工作を企て、マスコミにも歪曲し

た学会攻撃の材料を流してきたのである。  

八〇年(同五十五年)四月、遂に山脇は、学会に、金を出すよう脅しにでたのだ。 

十条潔ら執行部は、山脇の悪質な手口と執拗な性格がわかってきただけに、対応に悩んだ。

このままにしておけば、学会が努力に努力を重ねてめざしてきた僧俗和合に、さらに亀裂

を生じさせる卑劣な工作を行うことは目に見えていた。その結果、横暴な宗門僧によって

どれほど多くの会員が苦しめられることか。それだけは避けたかった。 

苦慮する執行部に対して、山脇は三億円を出せと恐喝してきた。   

――「恐喝だって何だっていいんだ。刑務所に入ったっていい」(注)  十条は苦悩の末

に、今後、一切、謀略や攻撃は行わないことを約束させ、断腸の思いで支払いに応じた。

山本伸一の中国訪問中の出来事であった。 しかし、山脇は、なんと、さらに五億円を要

求してきたのだ。六月七日、学会は恐喝並びに恐喝未遂で、彼を警視庁に告訴した。 

これを機に山脇は、狂ったように攪乱工作を始めた。週刊誌を使い、卑劣な学会攻撃を繰

り返した。それは、御書に「跡形も無き虚言なり」(一一五三ページ)、「そねみ候人の

つくり事」(一一五七ページ)とある通りの、妬みの作り話などであった。 

さらに原山も週刊誌に登場し、中傷を重ねていった。彼は山脇から大金を受け取っていた

ことが、山脇の裁判で明らかにされている。  

学会は、真剣で真面目な人びとの、清浄な信心の団体である。“邪心の徒”を許さぬ世界で

ある。山脇も原山も、最後は、周囲にまったく信用されない存在になっていた。 

皆、背信者の自滅の末路を感じていた。

 

  小説『新・人間革命』の引用文献  

   注 東京地方裁判所判決、昭和56年(刑わ)第288号

 

雄飛 三十九  

学会が山脇友政を告訴した六月七日、宗門の宗会議員選挙の結果が発表された。学会攻撃

を続ける若手僧らが、十六議席のうち過半数を占める十議席を獲得した。七月三日には選

挙後初の宗会が開かれ、彼らが宗会議長などの主要ポストを得たのだ。 

そして翌四日、彼らは、正式に「正信会」と称する組織を結成した。 七月の御講では、

学会批判を禁ずる再三の院達を全く無視して、多くの寺で、学会への激しい攻撃が行われ

た。こうした動きの背後にも、追い詰められた山脇の暗躍があった。 山脇に煽動された彼

らは、宗門の指示に従わず、勝手な行動を繰り返した。  

悪侶や週刊誌等による学会への集中砲火を、同志は耐え忍んだ。職場などで、同僚や上司

ら週刊誌の学会批判の話を聞かされる人もいた。しかし、創価の仏子たちは、「難来る

を以て安楽と意得可きなり」(御書750頁)、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」(同95

8頁)等の御文を思い起こしながら、互いに励まし合い、弘教に走った。  

当時、「聖教新聞」は、ようやく山本伸一の行動等が報じられるようになったとはいえ、

まだ、遠慮がちな掲載で、力強い前進の息吹を与えるものとはなっていなかった。 

伸一は、同志を思い、心を痛めた。

“ 皆に、新生の光を送らねばならない!”  折しも聖教新聞社からは、広布途上に逝去し

た草創の友らの回想録を連載してほしいとの要望が出されていた。

伸一は、草創期から黙々と信心に励み、学会を支え、生涯を広宣流布に捧げた同志を宣揚

しようと、その連載の開始を決めた。功労の同志の尊き生き方を通して、皆を勇気づけた

かったのだ。タイトルは「忘れ得ぬ同志」である。 また、小説『人間革命』も、二年前

の八月に第十巻を終了して以来、連載を中断しており、再開を望む声が数多く寄せられて

いた。彼は、『人間革命』の執筆も決意した。 

吹き荒れる嵐に向かい、敢然と一人立つ――これが学会魂だ。これが師子の道だ。

 

雄飛 四十  

七月下旬、山本伸一は、「忘れ得ぬ同志」と小説『人間革命』を担当する「聖教新聞」の

記者たちと、神奈川研修道場で打ち合わせを行った。彼が、『人間革命』の連載再開を告

げると、編集担当者は驚いた顔をした。そして、ためらいがちに話し始めた。「読者は、

大喜びすると思います。 しかし、宗門の若手僧たちは大騒ぎし、先生が格好の標的になっ

てしまうのでは……」 こう言って口ごもった。 

すかさず、伸一は強い語調で語り始めた。 

「そんなことはわかっているよ。今、大事なことは、私がどうなるかではない。守るべき

は同志です。学会員は、非道な僧や、それに同調する人間たちから、冷酷な仕打ちを受け

続けても、じっと堪え、広宣流布のため、学会のために、健気に、一途に、懸命に頑張っ

てくださっている。 

私の責任は、仏子である、その学会員の皆さんを守ることだ。勇気の光、希望の光、確信

の光を送り、皆が自信と誇りをもって、使命の道に邁進していけるようにすることだ。

そのために私がいるんです。 

したがって、今だからこそ、『人間革命』を書かなければならない。それが私の戦いなん

だよ。 いいね。 わかるね」 記者は、大きく頷いた。 

伸一は、笑みを浮かべ、言葉をついだ。「できるだけ早く始めたいんだ。挿絵を担当して

くださっている画伯とも、至急、連絡を取ってほしい。また、実は今、肩が痛くて腕が上

がらないんだよ。すまないが、場合によっては、口述を書き取って連載するようにしてく

れないか」 

この一九八〇年(昭和五十五年)の夏、 関東地方は長雨で、蒸し暑い日が続いていた。

伸一は、前年からの疲労が重なっており、その天候が体にこたえた。しかし、彼は燃えて

いた。

胸には闘志があふれていた。

「正義は必ず勝つという信念のみが、私たちを鼓舞する」(注)とは、マハトマ・ガンジ

ーの魂の言葉である。

 

  小説『新・人間革命』の引用文献  

   注 『マハトマ・ガンジー全集 68巻』インド政府出版局(英語)

 

 

 

 


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