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雄飛 一  

北京は、うららかな陽光に包まれていた。空港の周囲に広がる、のどかな田園風景が、

「北京の春」を感じさせた。

一九八〇年(昭和五十五年)四月二十一日の午後二時半(現地時間)、山本伸一たち第五

次訪中団一行は、北京の空港に到着した。 

この訪中は、伸一が会長を辞任して以来、初めての海外訪問であった。彼は、これまで民

間交流によって築き上げてきた日中友好の金の橋を、いっそう堅固なものにするとともに

二十一世紀に向かって、平和の大道を広げていこうとの決意に燃えていた。空港で一行を

出迎えた中日友好協会の孫平化副会長が、伸一に語り始めた。 

「北京は、この二、三日、『黄塵万丈』だったんですよ」 「黄塵万丈」とは、強風で黄

色い土煙が空高く舞い上がる様子をいう。 .

「一寸先も見えない状態でした。昨日の夕方、やっと収まったんです。今日は春らしい日

和となり、青空も広がりました。大自然も、先生の訪中を祝福しているようです」 

今回の中日友好協会からの招聘状には、「春の暖かく花が咲く季節」に一行を迎えたいと

あり、まさにその通りの天候となった。  

伸一は、束の間、日本国内での学会を取り巻く状況を思った。 “宗門の若手僧たちは、

異様なまでの学会攻撃をり返している。まさに「黄塵万丈」といえる。しかし、こん

状態が、いつまでも続くわけがない。 

これを勝ち越えていけば、今日の青空のような、広宣流布の希望の未来が開かれていくに

ちがいない”  

案内された空港の貴賓室には、大きな滝の刺繡画が飾られていた。これは、黄河中流にあ

る大瀑布で、さらに下ると、竜門の激流がある。ここを登った魚は竜になるとの故事が、

「登竜門」という言葉の由来である。 御書にも、竜門は仏道修行にあって成仏の難しさ

を示す譬えとして引かれている。  

一行は、幾度も激流を越えてきた創価の歩みを思いながら、滝の刺繡画に見入っていた。

 

雄飛 二

二十二日午前、山本伸一たち訪中団は、北京市の中国歴史博物館で開催中の「周恩来総理

展」を参観したあと、故・周総理の夫人で、全国人民代表大会常務委員会の副委員長等の

要職を務める鄧穎超の招きを受け、中南海の自宅「西花庁」を訪れた。 彼女の案内で、

海棠やライラックの花が咲く美しい庭を回った。亡き総理が外国の賓客を迎えたという応

接室で、伸一は一時間半にわたって懇談した。前年四月、日本の迎賓館で会見して以来、

一年ぶりの対面であり、総理との思い出に話が弾んだ。この日午後、人民大会堂で行われ

た歓迎宴でも、周恩来の生き方が話題となり、鄧穎超は、理の遺灰を飛行機から散布した

ことについて語った。 

胸を打たれる話であった。「若き日に恩来同志と私は、『生涯、人民のために奉仕してい

こう』と約束しました。

後年、死んだあとも、その誓いを貫くために、『遺骨を保存することはやめよう』と話し

合ったんです」 遺骨を保存すれば、廟などの建物を造ることになり、場所も、労働力も

必要となる。それでは、人民のために奉仕することにはならない。しかし、大地に撒けば

肥料となり、少しでも人民の役に立つこともできる。 

ところが、中国の風俗、習慣では、それはとうてい受け入れがたいことであり、実行する

ことは、まさに革命的行動であった。

「恩来同志は、病が重くなり、両脇を看護の人に支えられなければならなくなった時、私

に念を押しました。『あの約束は、必ず実行するんだよ』  

そして、恩来同志は亡くなりました。私が党中央に出したお願いは、ただ一つ、『遺骨は

保存しないでください。全国に撒いてください』ということでした。の願いを毛沢東主席

と党中央が聞いてくれ、恩来同志との約束を果たすことができたんです」 人民への奉仕

に徹しきった周総理を象徴するエピソードである。

意志は実行することで真の意志となり、貫くことで真の信念となる。

 

雄飛 三

山本伸一たち訪中団一行は、二十二日の午後、北京大学を訪問し、季羨林副学長らの歓迎

を受けた。大学の臨湖軒で、創価大学との学術交流に関する議定書の調印が行われ、の際

北京大学から、伸一に名誉教授の称号授与の決定が伝えられた。伸一は、謝意を表したあと

この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を

行った。  

中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も

早く神話と決別した国であるといえよう。  

講演では、司馬遷が、匈奴の捕虜になった武将・李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑

に処せられた時、「天道」は是か非かとの問いを発していることから話を起こした。

わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、

「個別を通して普遍を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、

こう論じていった。 ――それに対して、西洋文明の場合、十九世紀末まで、この世を支

配している絶対普遍の神の摂理の是非を、人間の側から問うというよりも、神という「普

遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自

然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめよ

うとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的、排外的な植民地主義が、神のベールを被

って横行してしまうと指摘したのである。  

さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的な法則性を探り出そうとする姿勢の大切

さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神

を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民

群像の誕生を期待したのである。  

伸一は、中国の大きな力を確信していた。それゆえに日中友好の促進とアジアの安定を願

い、訪中を重ねたのである。

 

雄飛 四

北京大学では、講演に引き続き、四川大学への図書贈呈式が行われた。 

当初、山本伸一は、四川省の成都にある四川大学を訪問する予定であったが、どうしても

日程の都合がつかず、ここでの贈呈式となったのである。  

四川大学の杜文科副学長に伸一から、図書一千冊の目録と贈書の一部が手渡されると、拍

手が鳴り渡った。

また一つ新たな教育・文化交流の端緒が開かれたのである。   

二十三日午前には、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長夫妻と、宿舎の北京

飯店で会談した。 

常書鴻は七十六歳である。敦煌美術とシルクロード研究の世界的な権威として知られ、第

五期全国人民代表大会代表でもある。 

彼は、前日、西ドイツ(当時)から帰国したばかりであったが、旅の疲れも見せずに会談

に臨んだ。 

伸一はまず、常所長が、敦煌研究に突き進んでいった理由について尋ねた。 

興味深い答えが返ってきた。 ――一九二七年(昭和二年)、二十三歳の時、西洋画を学

ぶためにフランスへ留学した。そのパリで、敦煌に関する写真集と出合う。すばらしい芸

術性に驚嘆した。

しかし、それまで、祖国・中国にある敦煌のことを、全く知らなかったのである。これで

はいけないと思い、三六年(同十一年)、敦煌芸術の保護、研究、世界への紹介のために

すべてを捨てて中国に帰ってきたのだ。 四三年(同十八年)、研究所設立の先遣隊とし

て、念願の敦煌入りを果たす。以来、三十七年間にわたって敦煌で生活を続け、遺跡の保

存、修復等に尽力してきた。  

「敦煌の大芸術は千年がかりでつくられたものです。ところが、その至宝が海外の探検隊

によって、国外へ持ち去られていたんです」 こう語る常書鴻の顔には、無念さがあふれ

ていた。その悔しさを情熱と執念に変え、保護、研究にいそしんできたにちがいない。

不撓不屈の執念こそが、大業成就の力となる。

 

雄飛 五

常書鴻が敦煌の莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに“陸の孤島”であった。 

周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばなら

なかった。もちろん、自家用車などない。 

土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。 

満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。 

近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。彼より先に敦煌に住

み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役

だね」と、冗談まじりに語った。 

しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。 「この古代仏教文明の海

原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」 

覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生

の勝利もある。また、それは仏法者の生き方でもある。ゆえに日蓮大聖人は、「よ(善)

からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。 

莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機

に瀕していた。

その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。  

作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。気の遠くなるような果て

しない労作業である。だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価

を受けるようになったのである。  

この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は、一九九二年(平成四

年)までに七回の会談を重ねることになる。  

そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩――美

と人生を語る』が発刊されている。 

未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。

 

 

 

 


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