☆小松原法難で殉教する
工藤吉隆(くどう よしたか)。 安房国東条郡天津(千葉県鴨川市天津)の門下の武士です。
日蓮大聖人は、弘長3年文永元年(1263年)、御年42歳の時、1年9カ月に及ぶ伊豆流罪が許され、鎌倉に帰られ
ました。翌 文永元年(1264年)8月、大聖人は故郷の安房へ帰省。母の病気平癒の祈りを捧げられました。(母
は無事蘇生) 大聖人はしばらく故郷に留まり、弘教されました。 同年11月11日、大聖人は10人ほどの共を連れ
て工藤吉隆の屋敷に向かいました。その途中、午後5時ごろ、大聖人一行が松原大路(小松原)で、待ち伏せして
いた東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に襲撃を受けました。
念仏の強信者であった東条は、大聖人の「念仏無間」の破折に激しい憎悪を持ち、また、大聖人門の大尼との領
地の支配権に敗北した恨みもあって襲撃したと考えられます。待ち伏せの東条軍の数は「数百人」(1498)。
「(敵が)射る矢は降る雨のようであり、打つ太刀は稲妻のようであった」(1498)と仰せのように、10人を
数百人の軍勢が襲ったのです。この襲撃に対し、工藤吉隆は死力を尽くして戦い殉教します。
大聖人の弟子の僧・鏡忍房(きょうにんぼう)も死亡しました。大聖人ご自身、額に深手の傷を負われ、左手を
骨折されました。大聖人は当時のことを「もはやこれまでという有様であったが、どうしたことであろうか、打
ちもらされて今まで生きている」(1498)と記されています。生前、工藤は「四恩抄」(935)を与えられてい
ます。この御書は伊豆流罪中、弘長元年(1261年)1月16日にしたためられた御書です。大聖人は四恩抄の中で
「流罪という難を受けていることは法華経の行者であることの証明である」と述べられています。
(以上、2017年大白蓮華6月号を参考に記述)
所感
大聖人門下で、最初の殉教者を出した小松原法難。11月中旬の午後5時は、すでに日が落ちていた時刻でしょう。
薄暗い林の中から、無数の兵士が襲いました。日蓮大聖人をお護りするために、おびただしい数の敵と戦う吉隆
・・ もし、吉隆がいなければ大聖人の命はなかったでしょう。