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南条時光(なんじょうときみつ)の生涯

 

◇青年創価学会(学会二世)永遠の憧れ。 南条家は、鎌倉幕府の御家人で、駿河(するが)国富士郡上野郷の

地頭であった。 上野郷の地頭であるがゆえに、上野殿と呼ばれた。 南条時光は、今でいう学会二世である。

正式な呼び名は、南条七郎次郎平時光。 南条時光の父は念仏信仰者であったが、大聖人に帰依し、時光の母や

子供たちも、皆、大聖人門下となった。 父は若くして亡くなった。時光7歳のときであった。 父亡き後も、母

の信仰は貫かれた。時光は、幼いときから母と共に日蓮大聖人の信仰を実践する。 その母と子の信心は、やが

て親類に当たる松野家、興津家を入信へと導く。 時光は、日蓮大聖人、日興上人から激励され、さらに多くの

先輩同志に接しながら強盛な信仰者へと成長する。

時光は熱原法難の際に、自宅を信仰活動の場に提供し外護に奔走したが、幕府は圧迫を強め、南条家には不当な

重税が課せられた。南条家は、極度の耐乏生活を強いられた。時光自身、乗る馬もなく、妻子の着るものにもこ

と欠く事態になった。しかし、この苦難にあっても、時光の信仰は揺るがない。時光自身、大聖人から30通を超

える御書を与えられている。与えられた御書の数は、信徒の中でも最も多い。 大聖人は、時光への手紙に「上野

賢人殿」としたためられ、その純粋にして強い信心を賞賛されている。

大聖人御入滅の後、やがて身延は謗法の山と化す。地頭の波木井実長が、学頭の日向に迷い、日興上人の戒めに

に不遜な態度を示すようになったのである。 日興上人は、大聖人の御遺命を体し、身延離山を決意された。この

身延離山に際し、自宅に日興上人をお迎えした時光は、自領の大石ケ原の地を寄進することを申し出る。 そして、

南条家、新田家、西山家、高橋家、石河家などの同志と糾合して日興上人門下の寺院建設に着手したのである。

最初の寺の大きさは、十二間四方(約22m四方)。名称は大石寺と命名された。山号は、多宝富士大日蓮華山。

ときに、南条時光、32歳であった。大石寺、すなわち、創価学会の源流たる日蓮正宗の寺院建立は、この南条

時光の赤誠によって果たされたのである。この大石ケ原には、やがて、幾多の坊が建設されていく。

時光の晩年は、幸福に満ちた生活になった。 息子に家督を譲り、先立った妻の乙鶴(法号・妙蓮)の追善菩提

のため自宅を供養し、妙蓮寺を創立した。享年74歳。

嗚呼、南条時光よ!誉れ高き日蓮仏法の丈夫(ますらお)よ! われ、時光の人生に感服するのみ。


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