☆信心の強弱を今に伝える
安房国(あわのくに)東条郡(千葉県鴨川市)在住の門下。「新尼」「大尼」の名称から、嫁・姑(しゅうとめ)
の関係と考えられます。 大尼は、東条郡内の荘園の領主であったと推定されます。
大聖人は「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(896)、「日蓮が重恩の人」(906)と仰せであることから、
大尼は大聖人の両親をお世話しており、大聖人をも援助していたようです。
大聖人が立宗宣言された建長5年(1253年)前後、 東条郡の地頭であった東条景信(とうじょうかげのぶ)が
大尼の領内の寺を奪うなどの争いが起こりました。 支配権をめぐる訴訟と考えられ、大尼はこの時、大聖人に
助けを求めます。 大聖人の支援で、大尼は窮地を脱します。 このとき、大尼と新尼とが帰依したと推測されま
すが、文永8年(1271年)に竜の口法難と佐渡流罪となり、やがて大尼は信心から離れてしまいます。
大聖人はこのことを「(大聖人が大尼に)手紙を出したとしても尼御前はあまり懐かしくはおもわないのでしょう」(891)と記され、弾圧の渦中、大聖人と距離を置こうとする大尼の心中がうかがえます。
対して、新尼は信心を捨てませんでした。それどころか佐渡にまで御供養をお届けしています。文永11年(1274
年)3月、大聖人は佐渡流罪が赦免となられ、さらに同年10月、蒙古軍が襲来(文永の役)、大聖人の正しさが誰
の目にも明らかになります。 すると、信心から遠ざかっていた大尼も、再び信心をするようになりました。
翌、文永12年に大尼は大聖人に「御本尊の授与」を願い出ます。 しかし、大聖人は「難の際に退転した大尼には
授与することはできない」と断られました。
大聖人は、たとえ多大な恩を受けてきたとしても、大尼に御本尊を授与すれば、ご自身が法義を曲げた「偏頗の
法師」(907)になってしまうとされています。
一方、新尼には御本尊を授与されました。 結果的に新尼経由で御本尊は授与され、大尼も御本尊を拝することが
できました。 御本尊を授与するか否かの境目は、「師である大聖人と共に難に屈せず妙法を広める覚悟」、つま
り「広宣流布の信心」があるかどうかを教えられたとも拝せられます。
まっすぐに師を求める信心が光った新尼に対し、中途半端な大尼の信心は、その後もなかなか直りませんでした
が、それでも大聖人は粘り強く指導を続けられました。