2017年7月17日
きょう7月17日は、1957年(昭和32年)に中之島の大阪市
中央公会堂で「大阪大会」が行われた日である。
この時の“戦いは負けたらあかん”との「関西魂」は今、世界に輝き
広がる。ここでは、「不敗の原点『大阪大会』60周年記念特集」
として、関西婦人部の代表の証言を交え、その精神を確認する。
赤れんがの壁と緑のドーム屋根が特徴的な中之島の「大阪市中央公会堂」
数々の関西広布の節目を飾る舞台となってきた。2002年(平成14年) 、
国の重要文化財に指定された。
大阪市の関西池田記念会館に「師弟常勝之碑」がある。碑文は、「大阪大会」50周年の2007年(平成19
年)7月、池田先生が関西の友に贈ったものだ。その冒頭は「師弟こそ 仏法の真髄にして 最極の魂の結合な
り」と。創価学会は、「師弟」という深い人間の絆で結ばれた団体である。ここに、権力の不当な弾圧にも屈し
ない強さの源泉がある。
60年前、権力の魔性が牙をむいた「大阪事件」に、関西は負けなかった。師と共に、迫害を堂々と勝ち越えた。
関西の友が満天下に示したのは、「師弟」の底力にほかならない。 1957年(昭和32年)7月3日、池田先
生は事実無根の冤罪で、不当逮捕された。発端は、3カ月前の参院選(大阪地方区の補欠選挙)にさかのぼる。
一部の会員が起こした選挙違反を、池田先生に強引に結び付けたのである。
この逮捕までに、警察と検察は、学会員に威圧的な取り調べを行った。 当時、女子部班長だった林智栄子さん
(関西婦人部総主事)。参院選から数日後、刑事が自宅に来た。戸別訪問の容疑だという。連日、朝から晩まで
の取り調べ。刑事は「誰の指示で動いた!」と問い詰めた。戸別訪問などしていない林さんは、否認し続けた。
その後、取り調べは大阪地方検察庁へ移った。そこでは、複数の検事に取り囲まれた。
ある時には、検事が池田先生の写真を手に、「知ってるやろ」と恐ろしい剣幕で詰め寄ってきた。その激しさは、
林さんの頭をもうろうとさせ、“私、悪いことしたんやろかと錯覚させるほどだった。
「罪もない人を平気で陥れようとする。権力の怖さを心の底から感じました」
池田先生が不当逮捕されたのは、この取り調べから1ケ月半ほど後のこと。
「先生の逮捕を聞いた時は“私の取り調べさえ、あれだけ問い詰められたのに、どれほど先生は責められてしまう
のか”と不安で仕方ありませんでした」
池田先生は逮捕から5日後の1957年(昭和32年)7月8日、大阪拘置所に移監された。
この日、検事は2人係で夕食も取らせず、深夜まで取り調べを続けた。
9日検事は「罪を認めなければ、学会本部を手入れし、戸田会長を逮捕する」と恫喝した。
すでに恩師の体は衰弱しており、逮捕は生命の危険にも結び付きかねない状況だった。
獄中で一人、煩悶を続けた先生は、恩師の身を案じ、法廷で真実を証明することを決断したのである。
57年7月17日の正午過ぎ、池田先生は大阪拘置所から出所。多くの関西の同志が歓喜して出迎えた。先生はつ
づっている。「私の投獄を、わがことのように心配し、悲しみ、憤った、関西の同志たち。私は、その真心への
感謝を絶対に一生忘れることはないだろう」
午後6時、場内と場外合わせて約2万人の友が集まり、中之島の大阪市中央公会堂で「大阪大会」が開会した。
しばらくすると、空を厚い雲が覆い始めた。横暴な権力に対する諸天の怒りであるかのごとく、
豪雨が地面をたたき、空には雷鳴が響いた。
場外のスピーカーの声は、雨の音でかき消された。だが、誰一人として帰ろうとする人はいない。
仕事を終えて駆けつけた林さん。ずぶ濡れになりながら、堂島川を挟んで公会堂の対岸にあった大阪地検の建物
を睨みながら、固く誓った。 “負けたから、こんな悔しい思いをした。闘いは負けたらあかん。一生かけても
この仇は討つ”その燃えるような気迫は、60年が過ぎた今も赤々と。林さんは力を込めた。「“仇討ち”とは、個人
的な復讐などではありません。 “師と共に” との心で、広布拡大に挑むこと。それが、関西の関西たるゆえんで
あり、池田先生が教えてくださった精神です」
栗原明子さん(関西婦人部総主事)は、当時、女子部部隊長を務めていた。ある日、いてもたってもいられず、
警察署などを回った。すると偶然、署の前に一台のジープ型の車が止まった。その直後、先生の姿が見えた。
目が合った。「元気?」と先生から声が。「元気です!」と栗原さん。
今から取り調べが待っているにもかかわらず、一人を大切にする、いつもの「常勝将軍」の雄姿が、そこには
あった。
「いついかなる時も、先生は変わらない。先生のお姿を拝見し、“権力の魔性などに断じて負けてなるものか”
と深く誓いました」 もう一つ、栗原さんには忘れられないことがある。 池田先生の逮捕以来、旧関西本部
には、頻繁に戸田先生から電話がかかってきた。ある時の電話の後、応対していた壮年が受話器を持ったまま、
号泣する姿を、栗原さんは見かけた。壮年が涙したのは、戸田先生が「代われるものなら、わしが代わってや
りたい。あそこは入った者でないと分からないんだ」と語ったからである。
師の恩は山よりも高く、海よりも深い。 ーーー どこまでも弟子を思う師の慈愛を、栗原さんが深く知った
瞬間だった。
「大阪大会」には、場内で参加。終了後、池田先生は「一緒においで」と栗原さんをはじめ、居合わせた友に声
を掛けた。先生の後ろにつき、公会堂の階段を上がった。先生は窓を開けると、場外の友に手を振った。
湧き上がる歓声と拍手は、しばしの間、鳴りやまなかった。
「池田先生と関西の絆は、どのような障魔が競い起ころうとも、断ち切ることなどできない。そのことを確信し
た光景でした」
「大阪大会」で池田先生は獅子吼した。 “最後は、信心しきったものが必ず勝つ”
この宣言は今、人生を切り開き、人間革命の勝利劇をつづりゆく “常勝の指針” として、関西の同志の心に受
け継がれている。
「大阪事件」の公判は、逮捕から4年半、84回に及んだ。この間、池田先生は23回、法廷の場に立った。
先生は裁判に出廷する前日、当日、翌日と可能な限り、関西の友に会い、励ましを送り続けた。
手づくりで、関西広布を一段と伸展させていったのである。
57年10月18日の初公判の日の夜には、神戸で友を激励。翌19日には、京都の宇治方面を訪れている。
61年(同36年)9月22日の午前には、第二室戸台風で被災した西淀川区に足を運んだ。午後からは大阪地裁で、
先生自らが検事への証人尋問に臨んだ。
検察が起訴した刑事事件の有罪率は当時「99%」を越えた。起訴されてしまえば、無罪は“不可能”といえた。
さらに、「大阪事件」を担当した弁護士は、「有罪は覚悟してほしい」という弱腰だった。 その中で、62年
(同37年)1月25日、先生に「無罪」判決が出たのである。
峯山益子さん(関西婦人部総主事)は、この日のことが忘れられない。
高校卒業後、図書館で働き始めた。 53年(同28年)12月、「常勝の母」と慕われた矢追久子さん(故人)の
勧めで信心を始めた。 翌年、先生が矢追さんの家を訪問。そこで、師との初めての出会いを刻んだ。図書館で
勤務していることを伝えると、先生から「御書は持っている?」と聞かれた。この時、まだ持っていなかった。
「その場で先生は御書を学ぶ大切さを教えてくださいました」
以来、御書の研さんに励んだ。職場には、学会を嫌う人がいた。週刊誌などに学会の批判記事が掲載されると、
その雑誌が必ず机の上に置かれていた。「でも全く気になりませんでした。“すべて御書の通りだ”って思ってい
ましたから。『大阪事件』が起こった時、信心が揺らがなかったのも、御書を研さんしていたおかげです」
61年、峯山さんは結婚。その直後、肋膜炎を患った。「自宅療養をしていましたが、先生が無罪を勝ち取られ
た日、母と一緒に旧関西本部へ向かいました」
無罪判決が出た後、先生は旧関西本部へ。「大法興隆所願成就」の関西常住の御本尊の前に端座し、感謝の祈り
をささげた。
そして、その場にいた峯山さんの病気平癒を祈り、「大丈夫だよ」と励ましを送った。
「先生の慈愛は、今も心から離れることはありません。生涯、師恩に報いる人生を歩んでいきます」
裁判を勝利で終えた直後も、先生は「一人の励まし」に徹した。広宣流布は、この「一人の励まし」から始まる
ことを、関西の友に改めて示したのである。
展を遂げている学会に対して、自分たちを脅かす勢力になると
恐れた権力による卑劣な弾圧であった。
池田先生は、小説『新・人間革命』第5巻「獅子」の章で綴って
いる。
「社会の主役、国家の主役は民衆です。その民衆を虐げ、苦し
め人権を踏みにじる魔性の権力とは、断固戦わなければならな
い。それが学会の使命であると、私は宣言しておきます」
民衆の側に立ち、正義の旗を掲げ続ける ――― 。
そのことを、先生が自らの身をもって示した「大阪事件」とその勝利。 不滅の「正義の原点」に刻まれた師の
精神は、世界広布の明日を照らし続ける。