大切なことは「真心が通じますように」との祈りです。祈りから智慧も生まれる。確信も
歓喜も生まれる。
大変だけれども、その人が必ず幸せになり、自分も幸せになっていくことを思えば、これ
ほど「楽しい」こともない。
戸田先生はよくおっしゃっていた。「折伏というものは苦しんでやるものではない。楽し
くやらなければなりません」と。
結果を焦る必要はない 語った分だけ 仏縁は広がっている。
大聖人は、御書に明快に「折伏せよ」と仰せになっている。「諸宗の人法共に折伏して御
覧ぜよ」(御書504頁)
「万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり」(同494頁)
また、次のようにも言われている、「邪智・謗法の者の多き時は折伏を前(さき)とす」
(同235頁)
「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む法華折伏・破権門理とは是なり」(同867頁)
末法の根本の修行は、折伏である。大変だけれども、やった分だけ自分が得をする。
それが折伏の実践である。
大事なことは、相手の幸福を真剣に御本尊に祈っていくことである。そして、自分自身の
体験を、学会の真実を、誠実に、自信満々に、語っていけばいいのである。
早く結果を出そうと焦る必要はない。勇気をもって語った分だけ、仏縁は広がっているの
だ。粘り強く、自分らしく、師子の心で、挑戦していってもらいたい。
仏法を少しでも語っていく友情の縁を結んでいく---大功徳を確信していただきたい。
大聖人の仏法は「下種仏法」である。南無妙法蓮華経に少しでも結縁しただけで、仏種は
消えることなく、いつか芽を出す。ゆえに、その大切な仏縁を結ばせる「弘教の人」「実
践の人」の福徳も計り知れない。 (中略)
「一句でも」仏縁を結ぶならば、その人の胸中には、永久に消えることない「成仏の種」
が確実に植えられるのである。 (中略)
大聖人の仏法を少しでも語っていく、友情の縁を結んでいく ---。たとえ、その時に
は相手が信心しなくても、仏種を植えていく「聞法下種」そのものが「折伏」なのである。
相手が発心した場合と、まったく変わらぬ偉大な功徳があることを確信していただきたい。
一人が十人の本当の友人をつくっていこう!
「一人が、十人の本当の友人をつくっていこう! そこに実質的な広宣流布がある」
(中略)さあ、創価の友よ!新たな広宣流布の全身へ、立ち上がって、打って出よう!
沈黙していないで、語りかけよう!
一日一日、友情と対話のドラマを綴るのだ!
そして共々に、使命の大地に ”幸福拡大の本国土” を築きゆこうではないか。
(『随筆 出発の光』)