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経王殿御返事

 

本抄について

本抄は、文永10年(1273年)8月15日、日蓮大聖人が52歳の時、流罪地の佐渡

・一谷から送られたお手紙です。宛名は経王御前となっていますが、経王御前はまだ幼か

ったため、実際には、その親である門下に与えられたものと考えられます。  

本抄は、この門下が使いの者を佐渡へ遣わし、幼児である経王御前の病気平癒の祈念をお

願いしたことに対する御返事です。  

大聖人は本抄を認める直前、この門下に御本尊を与えられています。

 

拝読御文

但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経

の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをす

みにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは

南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし

 

真剣な祈りを根本に

拝読御文に「但し御信心によるべし」とあります。御本尊に偉大な功力があるといって

それを現すのは御信心によるのです”との意味です。  

私たちの仏法では、祈りを叶え成仏するための四つの要の力、すなわち「四力」(信力、

行力、仏力、法力)が説かれます。  

「信力」とは御本尊を信じる力であり、「行力」とは題目を唱え、人のため、社会のため

に広宣流布へと行動していく力です。  

「仏力」とは、仏が衆生を救う誓いを立て、その成就を願うこと、「法力」とは、妙法の

広大深遠な利益のことです。  

強盛な信力、行力を奮い起こしていく時、偉大な仏力、法力が現れてくるのです。  

例えば大聖人は『南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚

薄によるべきなり(御書1244ページ)と仰せです。

成仏も、妙法を持つ人の信心の厚薄によるとの趣旨です。厚薄とは、厚いことと薄いこと

を意味します。つまり、強盛な信心によってこそ、成仏はあるのです。  

第2代会長の戸田城聖先生は、信心の功徳について分かりやすく、次のように教えられま

した。「釣鐘を、楊枝でたたくのと、箸でたたくのと、撞木(釣鐘を鳴らす棒)でつくの

とでは、音が違うだろう。同じ釣鐘だが、強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く。

御本尊も同じだ。こちらの信力・行力の強弱によって、功徳に違いがあるのだよ」と。  

人生にあっても広布の活動にあっても、真剣な祈りと勇気ある行動・実践が、勝利の根

本条件となるのです。

 

「日蓮がたましひ」

日蓮大聖人は、命に及ぶ竜の口の法難(文永8年〈1271年〉9月12日)を乗り越え

て、南無妙法蓮華経と一体の仏の生命を凡夫の身に開かれました。  

そして、大聖人は御自身の仏の生命境涯を御本尊として図顕されていかれました。  

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経な

り日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし』とは、御本尊についての仰せ

です。万人成仏という仏(釈尊)の真意が述べられているのが法華経です。  

そして、法華経の根底に指し示された、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を、御自身

の身に開き顕されたのが、大聖人です。

竜の口の法難で発迹顕本された大聖人の御生命は、南無妙法蓮華経そのものなのです。  

御本尊には、大聖人御自身の身に開き顕された妙法・仏界が図顕されています。  

そして、私たちが御本尊を拝して南無妙法蓮華経の題目を唱える時、自身に具わる妙法・

仏界を直ちに見ることになるのです。私たちは御本尊を根本として、自身の胸中に仏界を

現すことができるのです。

御本尊は、凡夫である私たち自身の仏界を映し出す明鏡なのです。

 

病魔に勝つ

日蓮大聖人が本抄を認められた時、経王御前は重い病気にかかっていました。大聖人は本

抄の冒頭で「経王御前のことは、昼夜に日月天に祈っております」(御書1124ページ

通解)と述べられています。  

さらに大聖人は『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』(同

ページ)と仰せになり、妙法根本にどのような病魔も乗り越えることができると励まされ

ています。  

師子の声を聞けば、あらゆる獣は逃げ去ります。大聖人の仰せの通り、南無妙法蓮華経は

師子吼のようなものです。妙法の偉大な功力の前に、一切の病魔は退散するのです。  

ここでの「病」とは、信心の実践の上から、病気だけでなく、あらゆる苦しみや悩みとも

拝することができます。

そうしたさまざまな苦悩を打ち破ることができるのが、南無妙法蓮華経の師子吼です。  

病気になること自体、敗北でもなければ後退でもありません。病気との闘いを、自身の宿

命転換や信心を深める好機と捉えていくことが大切です。その強盛な一念が、障魔を打ち

破り、崩れざる幸福の軌道を固めていくのです。

 

池田先生の指針から 「勇気」の二字が信仰の真髄

薪を加えるほど火が盛んになるように、難に遭うほど、旺盛な大生命力をわきたたせてい

ける。仏の境涯を開いていける。それを大聖人は、身をもって教えてくださった。偉大な

る仏の力がみなぎれば、障魔に負けるわけがない。その大宇宙のような広大な境涯を涌現

していく、ただ一つの条件がある。  

それは「信」である。『但し御信心によるべし』『能く能く信ぜさせ給うべし』(御書

1124ページ)と仰せの通りである。  

どんなに鋭い剣があっても、それを使う人が臆病であれば、何の役にも立たない。大聖人

は『法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ』(同ページ)と仰せになられた。  

苦難に襲われたその時に、「勇敢な信心」「潔い信心」「勇猛な信心」「強盛な信心」が

あるかどうかだ。  

心こそ大切』(同1192ページ)である。大聖人は、幾度も「信ぜさせ給へ」等と強

調されている。  

今、時代は、乱気流の中に突入している。どんなに社会が動揺しても、いな、社会が動揺

している時だからこそ、自らの信心だけは微動だにさせてはならない。信心さえ揺るがな

ければ、いかなる状況も、必ず打開できる。最後は必ず勝利する。  

わざはひも転じて幸となる』(同1124ページ)のが妙法の力であるからだ。  

御聖訓に「心して信心を奮い起こし、この御本尊に祈念していきなさい。何事か成就しな

いことがあろうか」(同ページ、通解)と仰せの通り、どこまでも、祈り切ることだ。

祈り抜くことだ。(2008・12・29付、各部代表者会議でのスピーチ)

 

 ◇ ◆ ◇   

 

師匠に何としてもお応えするのだと、私は命がけで戦った。  

当時、時間を見つけては御書を拝し、日記に書き留めて心肝に染めていきました。  

その一節に、『つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心

のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし』(御書1124ページ)があり

ます。これは、わが子の病と闘う門下を励まされた御聖訓です。  

信心の真髄は「けなげ」すなわち「勇気」です。私も戸田先生の弟子として、渾身の勇気

を奮い起こし、病魔と死魔に挑みました。とともに、師匠と学会に襲いかかる一切の障魔

を、信心の利剣で叩き切る決心で、祈り、戦いました。(2012・7・26付、「若き

君へ 新時代の主役に語る」)

 

 

 

 

 

 


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