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「佐渡御書」

一切の障魔を打ち破る弟子に!

2月度の「御書講義」では「佐渡御書」を学びます。拝読範囲は「畜生の心は弱きをおど

し強きをおそる~千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず」(御書全集

957ページ7行目~12行目)です。ここでは、拝読の参考として、本抄の背景と大意

また、拝読範囲の理解を深める解説を掲載します。

 

背景

本抄は、文永9年(1272年)3月、日蓮大聖人が51歳の時、流罪地の佐渡から門下

一同に与えられたお手紙です。  

前年の「竜の口の法難」以降、迫害の手は大聖人だけでなく門下にも及び、弟子たちは投

獄・所領没収などに処されました。その中で、「大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ

大難に遭うのか」等の疑念を抱き、厳しい迫害を恐れて退転する者が続出したのです。  

難に動揺する弟子たちを案じられた大聖人は、文永9年2月、御自身が末法の御本仏であ

ることを示された「開目抄」を門下一同に送っています。  

この2月には「二月騒動(北条一族の内乱)」が起きましたが、これは「立正安国論」で

予言された「自界叛逆難」の的中を意味します。「佐渡御書」は、その知らせを受けて著

されたものであり、本抄は「開目抄」の趣旨を要約して示された御抄とも拝されます。

 

大意

本抄では、人間にとって無上の宝である生命を仏法にささげれば、必ず仏になれると教え

られ、その実践は時代によって異なることを示されます。  

中でも、悪王と悪僧が結託して、正法の行者を迫害する末法においては、「師子王の心」

で悪と戦い抜く人が必ず仏になる、と述べられています。  

また、自界叛逆難の的中という厳然たる事実から、大聖人こそ日本の人々にとって「主師

親の三徳」を具えた存在であり、大聖人を迫害する者が滅亡の報いを受けるのは、法華経

の経文に照らして明らかであると断言されています。  

さらに、御自身の法難の意味を洞察され、法難を受けることによって、過去世からの罪業

を滅することができるという、宿命転換の原理を示されます。  

そして、大聖人に対する退転者の、愚かな批判を一蹴されるとともに、彼らが念仏者より

も長く無間地獄に堕ちると弟子を厳しく戒められ、本抄を結ばれています。

 

不惜身命 一人立つ信心が成仏の要諦

「佐渡御書」の冒頭部分は、『世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死する

となるべし』(御書956ページ)との一節から始まっています。死を恐れ、命を惜しむ

のは、生きる者の常です。だからこそ、かけがえのない自分の命を、人生でどのように使

うかが重要になってきます。  

日蓮大聖人は本抄の前段で、法華経薬王品の一節を挙げられ、「この大宇宙に敷き詰めら

れるほど多くの財宝を供養するよりも、手の小指を法華経に供養することには及ばない」

と述べられています。すなわち、身命を仏法にささげることが、どれほど素晴らしいこと

なのかを示されているのです。  

さらに、釈尊の過去世の姿である雪山童子や楽法梵志が、仏法のために大切な自身の身命

をささげたことを通して、不惜身命こそが仏道修行を成就させる成仏の肝要であると仰せ

です。ここでいう「不惜身命」とは、決して命を粗末にすることではありません。全生命

を懸ける覚悟で真剣に信心に励んでいくことです。  

大聖人は『世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏にな

る人もなかるべし(同ページ)と、「世間の浅き事」のために自分の身を滅ぼすのでは

なく、「大事の仏法」のために身命をささげてこそ、仏になることができると強調されて

います。  

池田先生は、「私たちにとって『不惜身命』とは、恐れなく南無妙法蓮華経を唱え抜くこ

とであり、世界のため、未来のため、人々のために、懸命に信心の実証を示しきっていく

こと」と、つづられています。  

大聖人は「佐渡御書」を通して、所領没収や投獄、追放などの難を恐れる門下たちに、

「今こそ成仏のチャンスである」と、不惜身命の覚悟を促されているのです。

 

師子王の心 「三類の強敵」に敢然と挑む

本抄の御執筆当時、大聖人を見下す諸宗の僧たちが権力者と結託して、大聖人を亡き者に

しようとしました。その中にあって大聖人は、法華経に説かれる通りの「三類の強敵」と

の闘争に敢然と挑み、乗り越えて、末法の御本仏としての御境涯を示されました。  

そのことについて拝読御文では、『畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は

畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり』(御書957ペ

ージ)と仰せです。  

「諛臣」とは、こびへつらう臣下の意味です。大聖人は、政治権力を恐れてこびへつらい

また、物事の道理に暗いために「正義」の人を侮る、諸宗の僧や迫害者たちの本質を、

「畜生の心」と破折されています。  

大聖人が、どこまでも大切にされたのは「法」でした。本抄では、御自身の不惜身命の実

践を支える根本精神について、“正法を惜しむ心が強盛だからである”と仰せです。  

また、拝読御文で『悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして』(同ページ)とある

ように、邪悪の勢力は結託して正義の人を弾圧します。大聖人も、平左衛門尉頼綱らの政

治権力と極楽寺良観ら悪僧の結託によって、命にも及ぶ迫害を受けましたが、全てを勝ち

越えられました。それは『師子王の如くなる心』(同ページ)があったからである、と仰

せです。  

「師子王の如くなる心」とは、百獣の王・獅子のように、何ものをも恐れず、どんな状況

にも常に全力で挑んでいく「勇気の心」と拝されます。  

悪の結託による迫害の時に、「師子王の心」で立ち上がり、戦い抜く人は必ず仏になると

大聖人は断言されています。  

そして『例せば日蓮が如し(同ページ)と仰せになり、  “師が一切の魔性を打ち破った

ように、弟子も「師子王の心」を取り出して、魔を打ち破れ!”“師と同じ心で戦え!”と呼

び掛けられているのです。

 

摂受・折伏 時機に適った実践こそ重要

拝読御文の最後の部分で大聖人は、『正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得

道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず』(御書957ページ)

と仰せです。  

どこまでも時に適った実践こそ成仏の要諦であり、いかに、膨大な経典や書物を読んでも

時に適った実践がなければ成仏はかなわないと教えられています。  

このように本抄では、一貫して「時に適った実践」の重要性が強調されています。  

御文の前段で大聖人は、『仏法は摂受・折伏時によるべし』(同ページ)とも仰せです。

「摂受」は、人々の機根に合わせて法を説いていくことであり、「折伏」は、極理の南無

妙法蓮華経を説き切っていくことです。  

末法では、折伏こそ時に適った実践です。大聖人は、末法において法華経を流布すれば、

釈尊在世よりも激しい怨嫉(=敵対、反発)が起こり、大難が競い起こることを教えられ

ています。しかしながら当時、大聖人の門下の中にも、正義ゆえに大難が競い起こること

を、受け止められない者がいました。師匠である大聖人が、竜の口の法難、佐渡流罪と、

命に及ぶ大難に遭うと、恐れと、師匠への不信を抱くようになっていったのです。  

彼らは、「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし

(同961ページ)と言いだしました。  

大聖人はこうした退転の心に覆われた門下を、「蛍火が太陽や月を笑い、蟻塚が華山を見

下し、井戸や川が大河や海を侮り、鵲が鸞鳳を笑うようなものである」(同ページ、通解)

と、悠然と見下ろされています。  

創価三代の師弟は、この大聖人の精神を受け継ぎ、広宣流布にまい進。一切の大難を勝ち

越え、厳然と正義の旗を打ち立てました。学会は永遠に「折伏の団体」であり、声も惜し

まず、自他共の幸福を広げる対話に率先しているのです。

 

 

 

 


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