本抄は弘安元年(1278年)4月、日蓮大聖人が身延で著されました。 本抄の題号に「檀越某」とあるよう
に、ある檀越(檀那のこと。在家の有力門下)に与えられたお手紙ですが、詳細は定かではありません。
大聖人は文応元年(1260年)、「立正安国論」の提出によって国主諫暁をされて以来、相次ぐ迫害を受け、
伊豆流罪、佐渡流罪に遭われます。そして、佐渡流罪の赦免から4年がたった弘安元年になると、3度目の流罪
が企てられたようです。
本抄は、その知らせを受けて認められた御書です。
大聖人は、3度目の流罪が起こるのであれば、百千万億倍もの幸いであり、大聖人こそが法華経の行者であるこ
とが明確になると仰せです。大聖人は『あわれ・あわれ・さる事の候へかし』(御書1295ページ)と、3度
目の流罪という大難が起こることを願っているとさえ述べられています。
さらに、疫病や老いによって、はかなく死ぬよりも、願わくは国主の迫害を受けて法華経に殉じていこうとの覚
悟を示されます。
最後に、この檀越に対して、いかなる状況にあっても、今のまま主君に仕えることが法華経の修行であると捉え
て、現実社会で勝っていくよう教えられています。
拝読御文
『御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり』
信心即生活
一般に、信仰を“日常の生活から離れた特別な事柄”とする考え方や、日常生活の中でも信仰の時間と生活の時間
とは別のものであるとする見方があります。
しかし、日蓮大聖人の仏法においては、信仰と生活とは、そのように切り離されたものとしては捉えません。
拝読御文に「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」と示されています。「御みやづかい」とは主君等へ仕えるこ
とであり、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活に当
たります。
この御文は、日々の生活の場が、そのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場である
ことを教えられているのです。
生活は、私たちの生命活動そのものにほかなりません。
そして、信心は、私たちの生命自体を変革し、充実させていく力となります。
生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現
実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革をもたらします。
また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯で生きれば、現実の生活そのものも、おのずから変革されていきます。
信心を草木の根に例えれば、生活は、豊かな果実を実らせる幹や枝に例えることができます。信心を根本にすえ
ない生活は、環境に流されてしまう根無し草になりがちです。信心の根が深ければ深いほど、盤石な生活を築い
ていけると説くのが大聖人の仏法です。
以上のように、大聖人の仏法においては、信心と生活は一体です。ゆえに、創価学会の指導には「信心即生活」
といって、生活はその人の信心の表れであると捉えて、信頼される社会人として、生活に勝利していくべきこと
を教えているのです。
「皆実相と相違背せず」
「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」とは、法華経法師功徳品の「諸の説く所の法は、其の義趣に随っ
て、皆実相と相違背せじ。若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(法華経
549ページ)との文の趣旨を天台大師が説明した言葉です。
この法華経の文は、「意根清浄」の功徳の一つに当たり、法華経の受持によって「意根」すなわち「心」の働き
が清浄になれば、その人が世間法のいかなることを説いても、仏法にかなった正しい言葉になっているとの趣旨
です。
ここでいう「清浄」とは、感覚・知覚器官が清らかになり、物事を正しくありのままに捉えることができること
をいいます。
天台大師は、法華経を持った人の功徳について、“社会生活や生産活動など世間における人々のさまざまな営みが、
妙法に背くものではない”と教えているのです。
社会や生活という現実をどこまでも大切にして、信心根本に努力を重ねていくところに、妙法を持つ信仰者の真
の姿勢があります。
世間、出世間
人々が互いに関わって生活している場、すなわち世の中のことを「世間」といいますが、もともと仏教でいう
世間は、「移り流れてとどまらない現象世界」という意味で、いわば迷いの世界のことです。
一般の仏教では、私たちが住む迷いの世の中である「世間」に対して、この世間を離れて覚りの世界を求める
ことを「出世間」といいます。
法華経以外の教えでは、この「世間」と「出世間」を別のものと捉え、「世間」を離れた「出世間」の中に覚
りの道があるとしました。俗世から離れた山林、寺院などにこもったり、西方浄土に生まれ変わろうと願うの
は、こうした例です。
しかし、法華経では、社会や日々の営みがそのまま仏法であり、現実を離れて仏法は存在しないと説きます。
日蓮大聖人は「世間の法が仏法の全体である」(御書1597ページ、通解)と示されています。
大聖人の仏法では、「世間の法」である政治、経済、文化、教育等の社会の諸事象や日々の営みが、そのまま
仏法の全てなのです。
池田先生の指針から 仕事に励むことが即、仏道修行
本抄の対告衆である門下は、襲いかからんとする迫害の兆しを知り得る立場にいたのではないかと考えられます。
もしかすると、弾圧を加えようとしている権力者の近くで勤める立場であったのかもしれません。
いずれにせよ、大聖人の門下であることが原因で重大な危険にさらされかねない状況の中、日々、真面目に誠実
に勤務していたのだろうと想像できます。
だからこそ、大聖人は、この門下にきっぱりと言い切られます。
「さで・をはするこそ法華経を十二時に行ぜさせ給うにては候らめ」
日々、真剣に仕事を果たすことが、そのまま一日中、常に、法華経の修行をしていることになると仰せなのです。
「信心」は即「生活」であり、「仏法」は即「社会」なのです。また仏法は勝負です。
一番、真面目に信心をし抜いた人が、最後は必ず勝つのです。
戸田先生は、「檀越某御返事を、目や頭で読まずに、体で読んでほしい」と、常々、語られていました。
私も若き日、戸田先生のもとでお仕えしましたが、本当に厳しい薫陶の連続でした。学会活動を理由に、仕事を
疎かにすることなど、断じて許されませんでした。「信心は一人前、仕事は三人前」と、信仰者としての姿勢を、
厳格に教えられました。
少々、長くなりますが、「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」を拝した、戸田先生のご指導を紹介しておきま
す。 「自己の職業に、人一倍打ち込もうともせず、ただ漠然として、信心していけば功徳があらわれて、なん
とか成功するであろう、などと考えるのは、これ、大いなる誤りである」 「わが職業に歓喜を覚えぬような者
は、信心に歓喜なき者と同様であって、いかに題目を唱えようとも、社会人として成功はあり得ようがない」
「職業をよくよく大事にして、あらゆる思索を重ねて、成功するよう努力すべきである。また、会社やその他へ
の勤め人は、自分の勤めに、楽しみと研究とを持ち、自分の持ち場をがっちりと守る覚悟の生活が大事である」