本抄について
本抄は、日蓮大聖人こそが主師親の三徳を具えた末法の御本仏であることを明かされた重書です。大聖人が佐渡流
罪中の文永9年(1272年)2月に、四条金吾に託して門下一同に与えられました。
題号の「開目」とは、文字通り「目を開く」ことであり、末法の一切衆生を救う大聖人に“目を開け”との呼び掛け
とも拝されます。
大聖人は前年の9月12日に竜の口の法難に遭われ、続いて佐渡に流罪されました。弟子たちも投獄、追放、所領
没収などの迫害を受け、大聖人が他の御抄でも述べられているように、疑いを起こして退転する門下が続出しまし
た。
こうした中にあって本抄では、“大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天善神の加護がないのか”等、世間の人
々や動揺する門下が抱いていた疑問や批判に対して答えられています。
“なぜ諸天善神の加護がないのか”との批判に対し、大聖人は本抄で、法華経に説かれる「三類の強敵」等を踏まえ、
末法の法華経の行者が難を受けるのは経文の通りであることを示されます。
拝読御文
『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏
ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束
せし事を・まことの時はわするるなるべし』
「諸難ありとも疑う心なくば」
拝読御文で日蓮大聖人は門下に、どんな難があろうと信心を貫き通していけば、必ず仏の境涯を開くことができる
と教えられています。
大聖人が仏の境涯を顕されたのは、まさに拝読御文で教えられている通り、数々の難に遭っても疑う心なく妙法へ
の信を貫き、広布に進まれたからです。また難に遭うことは、法華経の説く通りに妙法を弘めている証しでもあり
ます。
竜の口の法難は、大聖人の命に及ぶ大難でした。しかし、その中にあっても大聖人は、民衆救済という法華経の心
に生き抜く中に人として最も尊い生き方があるとの信念を貫き、命に及ぶ難を乗り越えられたのです。
数々の難と戦われた大聖人のお振る舞いが示しているのは、何があっても広宣流布の誓願を貫く中に成仏があると
いうことです。本抄は、数々の難があっても大聖人御自身が民衆救済の誓願を貫いて末法における凡夫成仏の道を
開かれたこと、そして門下も広布の誓願を貫いて臆さずに難と戦い、真っすぐに成仏の道を歩むべきことを教えて
います。
本抄で大聖人は『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願』(御書232
ページ)と述べられ、この民衆救済の誓願を破ることはできないと断言されています。。
拝読御文の「疑う心なくば」とは、何があっても妙法根本に不退転の心で広布に前進していくことと拝されるでし
ょう。「諸難ありとも疑う心なくば」との大聖人の仰せを心に刻んで、どこまでも信心根本に広布へ前進していき
ましょう。
「自然に仏界にいたるべし」
日蓮大聖人は「我並びに我が弟子」と仰せです。ここには、大聖人御自身と門下を分け隔てる心はありません。
“自身の歩む凡夫成仏の道を、門下も同じように歩み抜け”――拝読御文には、門下をどこまでも思いやられる大
聖人の大慈悲が脈打っています。
大聖人は、妙法弘通に生き抜けば自然に仏界に至ることができると教えられています。
難について法華経には、釈尊滅後の悪世末法で妙法を弘める時、釈尊が受けた以上の激しい難を受けることが述
べられています。例えば、三類の強敵による迫害です。
しかし、法華経は一方で、妙法を弘通する人は諸天善神に守護され、また「現世安隠にして」(法華経244ペ
ージ)すなわち今世で安穏な境涯となることを説いています。当時、大聖人門下の中に、妙法を弘通する自分た
ちが法華経の説く通りの“現世安穏”でないのはなぜかと疑問を抱く人々がいたのです。
大聖人は本抄で、諸天善神の守護の有無という次元を超えて、命を懸けて広宣流布に生き抜くことを述べられて
います。それが、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』(御書232ページ)との仰せ
です。“天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である”との意味です。
身命をなげうつといっても、命を粗末にすることではありません。わが身を惜しまず、人々の幸福のために広布
に行動しゆく時、妙法と一体の仏の生命を、わが身に開くことができるのです。
法華経寿量品には「不自惜身命(自ら身命を惜しまざれば)」(法華経490ページ)と説かれ、わが身命を惜
しまずに仏法を求めていく求道の心が成仏をもたらすと示されています。
不惜身命の心で広布へ行動する時、わが身に仏の境涯がおのずと開かれます。そして、何ものにも揺るがない仏
の境涯に、真の“現世安穏”もあるのです。
SGI会長の指針から 信心の極意を示す永遠の指標
苦難は、人間を強くします。 大難は、信心を鍛えます。
難に挑戦して信心を鍛えぬけば、わが己心に「仏界」を現していくことができる。
大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。
日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。
その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく
「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けない「強靱な信」であることこそが成仏
を決定づける。
この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節は、あまりにも有名です。『我並びに我が弟子(中略)
まことの時はわするるなるべし』(御書234ページ) いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはな
らない。諸天の加護がなく、現世が安穏でなくとも、「嘆きの心」にとらわれてはならない。不退の心で信仰を
貫く人が、真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指導であり、永遠の指針です。(『池田大
作全集』第34巻、「『開目抄』講義」)
◇ ◆ ◇
「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と仰せのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命
を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。
しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たち
の心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。
その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています。
強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚
かなことだ。“今が「成仏への時」ではないか! この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”
との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。
何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靱な魂を持った人は、何も恐れるものはない。(同)