• ただいま、Word Press 猛烈習熟訓練中!!
Pocket

兄弟抄

 障魔と戦い成仏の道を真っすぐに 自他共の幸福を築く根本は信心

拝読御文

此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば

三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を

修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせ

 

本抄について

本抄は日蓮大聖人が、武蔵国池上(東京都大田区池上)の門下である池上宗仲・宗長兄弟と、その夫人たちに送ら

れたお手紙です。

池上家は、有力な工匠で、鎌倉幕府に仕えていました。ところが、父が兄弟の法華経の信仰に反対し、兄・宗仲を

勘当します。本抄は、その報告に対しての激励のお手紙です。文永12年(1275年)の御執筆とされていまし

たが、現在では建治2年(1276年)と考えられています。

武家社会における勘当は、家督相続権を失うことに当たり、経済的な基盤も社会的な立場も奪われるという大変に

厳しい仕打ちでした。また、兄が勘当されるということは、弟が信仰を捨てれば家督相続権を譲り受けることを意

味します。ゆえに大聖人は、特に弟の信心が動揺することを心配され、さまざまな角度から激励されています。

兄弟が本抄を頂いて後、兄への2度目の勘当がありますが、兄弟は大聖人の御指導通りに実践し、後に父が入信し

ます。

 

「随う可らず畏る可らず」

拝読御文の「此の法門を申す」とは、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の仏法を自ら信じ、他の人々にも教えていく自

行化他の実践を指します。この実践に努める時、信心を妨げようとする働きである魔が必ず現れてきます。

さらに大聖人が「魔競はずは正法と知るべからず」と仰せの通り、修行する法が、成仏へと向かわせる正法である

がゆえに魔が競い起こってくるのです。

また、天台大師が述べているように、修行が進み、仏法の理解が深まってくると、障魔が競い起こります。障魔の

「障」とは、障りということであり、信心の実践を妨げる働きをいいます。

そして「紛然として競い起る」と示されている通り、障魔は入り交じって争うように現れてきます。

障魔が競い起こってきた時、これに従ったり、これを恐れてはならないと天台大師は警告しています。障魔に従っ

たり、障魔を恐れると、成仏へと向かうことができず、逆に悪道に堕ちてしまうからです。

それゆえに大聖人は、この天台大師の警告を大聖人門下にとっての明鏡であり、末法万年の未来まで変わらない永

遠の資糧(指針)として習い伝えていくように教えられているのです。

この時、池上兄弟は、兄・宗仲が父から勘当されて、弟・宗長が家督を相続する可能性が生まれました。しかし、

父は兄弟の信心に反対です。仮に弟の宗長が家督を相続することになるとしても、父が宗長の信心を許す保証はあ

りません。一方で父への孝養を考えれば、宗長にとって家督を相続する方が正しいことと思えたかもしれません。

この時、宗長は、信心を取るかどうかの窮地に立たされたのです。

もちろん、信仰を捨てれば成仏の道は閉ざされてしまいます。ゆえに大聖人は本抄を通して池上兄弟に、信心の妨

げがあっても、それを信心根本に乗り越えていくよう励まされているのです。一家の幸福と和楽も、信心を根本に

築かれるものだからです。

池上兄弟は大聖人の御指導の通りに信心を貫き、後に父が入信します。兄弟は大聖人の仰せ通りの信心と団結で障

魔を乗り越えたのです。

魔を魔と見破り、そして信心を根本として勇敢に魔に立ち向かっていけば、必ず魔を打ち破ることができます。

天台大師の言葉が示しているように、障魔に従っても、また恐れてもならず、結局、何があっても信心を貫き、唱

題根本に障魔に打ち勝つことこそ成仏の直道なのです。それが、自身にとっても一家一族にとっても、幸福と繁栄

の源泉となります。“障魔と戦う信心”を心に刻み、自他共の幸福の道を真っすぐに進んでいきましょう。

 

三障四魔

三障の「障」とは、障り、妨げということであり、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをい

います。

これに、煩悩障、業障、報障の三つがあり、煩悩障とは、貪り、瞋り、癡かなどの煩悩が信心修行の妨げとなるこ

とをいいます。

業障とは、自身が生命に刻んだ悪業が信仰を妨げるものです。本抄では具体的に妻子等の身近な存在によって起こ

るとされています。

報障とは、悪業の報いによる障りをいいます。本抄では国主・父母等、自分が従わなければならない存在によって

起こるとされています。

次に四魔の「魔」とは、信心修行者の生命の内側から、妙法の当体としての生命の輝きを奪う働きをいいます。

四魔とは陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つです。

陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心の働き)の活動が不調となって修行の妨げとなることであり、煩悩魔とは

貪、瞋、癡などの煩悩が起こって信心を破壊することです。

死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者等の死によって信心

に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえるでしょう。

最後に天子魔とは、他化自在天子魔のことで、他化自在天王(第六天の魔王)による働きであり、最も本源的な魔

です。天子魔は、権力者等の身に入るなど、あらゆる力をもって修行者に迫害を加えてきます。

信心を貫いていく時、三障四魔を避けて通ることはできません。ここで注意すべきことは、障魔が競い起こるとい

っても、煩悩や、妻や夫、子、父母、五陰、死そのものが、初めから障魔であるということではなく、これに引き

ずられる信心修行者の弱い生命にとって三障四魔と現れるという点です。

日蓮大聖人は、池上宗長へのお手紙の中で『必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退く

(御書1091ページ)と仰せです。三障四魔が現れた時こそ成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを

喜ぶ賢者の信心で乗り越えていくことが大切です。

 

SGI会長の指針から 広布は仏と魔との連続闘争

三障四魔は「紛然として競い起る」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意

味です。

まさしく「紛然として競い起る」とは、三障四魔が、入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。

三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせて

くる。この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に二点、挙げています。

それが、「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を

畏れれば、正法を修行することの妨げとなってしまう。

結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。

魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向かっていく「勇気」。

要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。(『勝利の経典「御書」

に学ぶ』第2巻)

◇ ◆ ◇

魔は、仏道修行者の功徳を奪い、智慧の命を殺します。そして、衆生の善根を破壊し、三界六道に流転させていく。

そして魔の軍勢は、仏の勢力の前進を阻むために、さまざまな策略を巡らす。(中略) そもそも、大聖人が幾多

の大難を勝ち越え、戦ってこられたものとは、一体、何であったのか。その相手こそ、まさに「第六天の魔王」に

ほかなりません。

第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土を・とられじ・うばは

んと・あらそう』(御書1224ページ)

第六天の魔王は、十種の魔軍を率いて、娑婆世界を取られまい、奪おうと戦いを起こしてくる。それに対して大聖

人は次のように決然と御宣言なさった。

日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし』(同ページ) すなわ

ち、大聖人の御生涯とは、第六天の魔王が率いる魔軍との連続闘争であられた。

広宣流布とは、永遠に「仏」と「魔」との熾烈な戦いであるのです。(同)

 

 

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください