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一生成仏抄

拝読御文

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば

玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心

を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは

云うなり

 

本抄について

本抄は御真筆が現存せず、執筆の年次や宛先は不明ですが、建長7年(1255年)に著され、富木常忍に与えら

れたと伝えられています。  題号の「一生成仏」とは、凡夫が、この一生のうちに成仏することをいいます。

本抄は、この一生成仏の要諦である唱題行の意義について、法理と実践の面から明らかにされています。

拝読御文は、迷いの生命を、曇っていて、ものを映さない闇鏡に、覚りの生命を、よく映る明鏡に例えられていま

す。闇鏡も磨いていけば明鏡となるように、深く信心を起こして日夜朝暮に怠ることなく唱題に励んでいくことで、

智慧が輝く仏の境涯を顕していくことができると教えられています。

 

「必ず法性真如の明鏡と成るべし」

拝読御文の前段で日蓮大聖人は、仏の住む浄土といっても、汚れた国土を意味する穢土といっても、二つの別々の

国土があるのではなく、そこに住む私たちの心の善悪によって違いが現れると示されています。

拝読御文はまず、これと同じように衆生といっても仏といっても、別々の存在ではないことを教えられます。

つまり、両者は迷っているか、覚っているかの違いであり、このことを示す例えとして鏡を挙げられます。曇って

いる鏡であっても、よくものを映す鏡でも、鏡であることに変わりはありません。

同じように衆生といっても仏といっても、一個の生命であることに変わりはありません。「只今も一念無明の迷心

は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし」との仰せの通り、無明という根本の迷いに覆われた

凡夫の生命も、磨けば必ず「法性真如の明鏡」(=真実の覚りの智慧の明鏡)という覚りの生命となるのです。

衆生と仏との間に本来、隔てはありません。しかし、法華経以前の経典(爾前経)では、九界の迷いの生命を断じ

尽くすことによって仏になることができるという考え方を脱却できませんでした。例えば歴劫修行といって、無量

劫もの間、何度も生まれ変わって修行を重ね、その結果として初めて成仏できるとされたのです。

これに対し法華経では万人の成仏が強調されるとともに、その現証として提婆達多品第12で竜女の即身成仏が説

かれ、凡夫がその身のままで、しかも今世で成仏できることが明かされたのです。

凡夫が今世で仏の境涯を得ることを一生成仏といいます。即身成仏も同じ意味です。

一生成仏について、大聖人は他の御抄で次のように仰せです。

「法華経の行者は、仏の説いた通りに修行するなら、必ず一生のうちに一人も残らず成仏することができます。

譬えば、春、夏に田を作るのに、早く実る品種と遅く実る品種の違いがあっても、どちらも一年のうちには必ず収

穫できるようなものです」(御書416ページ、通解)

また、成仏について「御義口伝」には『成は開く義なり』(同753ページ)と示されています。成仏とは、自身

の内に仏の生命を開くことです。それは、今いるこの現実の中で、何ものにも崩されない絶対的な幸福境涯を築く

ことをいいます。

自他共の幸福の実現こそ仏法の目的です。大聖人の仏法を持つ私たちは、日々、御本尊根本に仏界を涌現しながら、

自他共の幸福の確立へ広布の実践に励んでいます。こうして信仰を貫く中で、誰もが一生のうちに何ものにも微動

だにしない仏の境涯を築くことができるのです。

 

唱題行の姿勢

「深く信心を発して」以降の御文では、南無妙法蓮華経の題目を唱えることで、わが生命が磨かれ、仏の境涯を顕

せること、とともに唱題行のあり方について教えられています。

この唱題行の姿勢として、「深く信心を発して」「日夜朝暮に又懈らず」との二つの仰せを心に刻みたいと思いま

す。

まず「深く信心を発して」との仰せの通り、信心を奮い起こして御本尊を拝する姿勢が大切です。

日蓮大聖人の仏法にあって成仏の肝要となるのは、どこまでいっても信心です。

目の前の悩み、課題を乗り越えるために、私たちの信仰はあります。そのために、勇気を奮い起こして唱題に励む

中で自身の生命が磨かれ、内面に秘められた智慧や勇気を、ますます発揮することができます。こうして祈りを根

本としながら努力を重ねて、私たちは悩み、苦しみを乗り越えることができます。

信心は、仏道修行を阻む障魔の働きとの絶えざる戦いです。深く信心を奮い起こして、唱題で無明(=生命の根本

的迷い)や障魔を乗り越え信仰の実践を重ねていく中で強盛な信心が築かれ、一生成仏を果たすことができるので

す。  また「日夜朝暮に又懈らず」では、日夜、朝夕に、また怠ることなく唱題に励む姿勢を教えられています。

信心には“ここまでやればいい”という、いわばゴールはありません。地道に唱題を重ねていく“持続の信心”、また

仏法を求め続けていく求道の姿勢こそ、一生成仏の肝要となるのです。

広布の活動にあっても人生にあっても、一切を切り開く原動力は、強盛な祈りです。

大聖人の仰せを通して唱題行の姿勢を確認し、どこまでも唱題根本に自他共の幸福を願って広布へ前進していきま

しょう。

 

SGI会長の指針から 「深く信心を発して」の仰せを胸に

衆生は本来、妙法の当体です。そして、本来、わが生命に具わる妙法の無限の力を、何の妨げもなく、必要なとき

に必要な形で発揮できるのが仏の生命です。この状態が「玉」のように見える明鏡に譬えられています。

しかし、本来は妙法の当体であっても、無明に覆われると、妙法の力を発揮することはできません。この状態が

「闇鏡」、すなわち曇って物を映さない鏡に譬えられるのです。

この生命の闇鏡を磨く修行が唱題行にほかならないのです。(『池田大作全集』第34巻、「一生成仏抄」講義)

◇ ◆ ◇

唱題は、まず「勇んで為す」という挑戦の心が大切なのです。

それは「深く信心を発す」との大聖人の教えのままに、「わが己心の妙理を呼び起こすことができる」「わが生命

に本来具わる仏界を現すことができる」「必ず一生成仏できる」という、生命の奥底からの信を起こしていくこと

でもあると言えます。

それはまた、題目を唱えることを妨げる三障四魔との戦いに立ち上がっていくことでもあります。紛然と競い起こ

る障魔に、恐れることなく、倦むことなく、退くことのない挑戦の心が大切なのです。

挑戦し、戦って、無明を打ち破ってこそ、生命を磨くことができるからです。(同)

◇ ◆ ◇   苦しい時には挑戦の唱題、楽しい時には感謝の唱題と、『日夜朝暮に又懈らず磨く』(御書

384ページ)唱題行こそが、宝剣を鍛えぬくように、自身の生命を強靱にしていきます。「持続」とは、言い換

えれば「不退転」です。   (中略)  無明との闘争がなければ法性が顕れません。そして、戦い続けなければ、

法性と一体の揺るぎない生命を築くことはできない。「すこしもたゆむ心」には魔が入り込むからです。

また、戦えば三障四魔が出来します。この三障四魔に打ち勝つことで、成仏の境涯を確立することができる。

唱題行によって生命を根底から鍛えれば、心はいくらでも深くなり、生命はいくらでも強くなり、境涯はいくらで

も広くなります。(同)

 

 

 


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